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覚せい剤東京3

東京高等裁判所判決/平成22年(う)第695号

主文

 原判決を破棄する。
 被告人は無罪。

理由

 本件控訴の趣意は,弁護人(主任)宮家俊治及び同小澤正史連名作成の控訴趣意書記載のとおりであるから,これを引用する。
第1 控訴趣意第2の2(証拠法違反を理由とする訴訟手続の法令違反の主張)について
1 論旨は,要するに,被告人は,原判示の旅具検査場において,税関職員(財務事務官。以下同じ。)らによる携帯品検査を受けた際,弁護士等の法的アドバイスのできる人を呼んで欲しい旨を強く申し入れたのに,税関職員らにこれを聞き入れられず,弁護人の助力を受ける権利(憲法34条)を侵害されるとともに,その際,供述拒否権(憲法38条1項)を行使できる旨の告知も受けず,その権利を行使する機会を喪失したことにより,実質的に同権利をも侵害されたものであり,したがって,違法収集証拠の排除を要請する証拠法(憲法31条,刑訴法317条)に照らし,このような被告人に対する重大な権利侵害があった後の被告人の挙動,言動,供述等の情報を,被告人に対する有罪認定を基礎付ける資料として用いることは許されないから,原判決が,税関職員らの原審公判廷での証言を介して,これらの情報を被告人に対する有罪認定を基礎付ける資料に用いたのは,上記の証拠法に違反するものであり,この訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである,というのである。
2 そこで,原審記録を調査して検討すると,原判示の旅具検査場において税関職員が行った被告人に対する携帯品検査,すなわち,被告人の携帯品の開披検査やエックス線検査から,これに続く被告人の検査室への同行と同室で行われた携帯品の解体検査までの一連の検査に係る手続は,税関職員が,専ら貨物の輸入の公正な管理を目的とし,関税法67条に基づく貨物の輸入の許否を判断するのに必要な検査の一環として,あくまでも被告人の同意を得た上で任意の処分として行うものであり,刑事責任の追及を目的とする手続ではなく,刑事責任追及のための資料の収集取得に直接結び付く作用を一般的に有する手続でもない。そして,関係証拠によれば,本件に際しても,税関職員らが,被告人の同意を得た上でこれらの検査を行ったことが認められ,その過程で,被告人において,税関職員らに対し,弁護士等を呼ぶよう求めたこともあったとはいえ,最終的には,税関職員らの説得に応じて,そのまま税関職員らが上記の諸検査を継続することを受け入れたと見られるのである。そうすると,上記の旅具検査場における携帯品検査の過程で,被告人に対する上記の権利侵害があったことを前提とする所論は,その前提において採り得ないものというほかはない。すなわち,原判決に所論のような訴訟手続の法令違反はなく,この点の論旨は理由がない。
第2 控訴趣意第2の1及び第3(誤った経験則の適用を理由とする訴訟手続の法令違反及び事実誤認の主張)について
1 論旨は,要するに,次のようなものである。すなわち,原判決は,罪となるべき事実として,被告人が,氏名不詳者らと共謀の上,営利の目的で,何らかの違法薬物(覚せい剤を除外していない。)を輸入しようと企て,平成20年11月4日(現地時間。以下,「平成20年」は省略する。),マレーシアのクアラルンプール国際空港において,航空機に搭乗するに当たり,覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンの塩酸塩1486.9グラム(以下「本件覚せい剤」という。)を透明ビニールラップ等で2包に小分けし,これらを隠匿した赤色ハードスーツケース(以下「本件スーツケース」という。)を,千葉県成田市所在の成田国際空港までの機内預託手荷物として運送委託し,クアラルンプール国際空港関係作業員らをしてこれを同航空機に搭載させて同空港を出発させ,同航空機により,同月5日午前7時15分ころ,成田国際空港に到着させ,同空港関係作業員らをしてこれを同航空機から機外に搬出させて本邦内に持ち込み,もって覚せい剤を本邦に輸入するとともに,同日午前7時45分ころ,同空港内東京税関成田税関支署第2旅客ターミナルビル旅具検査場において,携帯品検査を受けるに際し,前記のとおり覚せい剤を携帯しているにもかかわらず,同支署税関職員に対し,その事実を秘して申告しないまま同検査場を通過して輸入してはならない貨物である覚せい剤を輸入しようとしたが,同支署税関職員に発見されたため,その目的を遂げなかった旨の覚せい剤取締法違反及び関税法違反(関税法違反の点は未遂。以下同じ。)の事実を認定判示している。しかしながら,被告人は,本件スーツケースが二重底になっていて,そこに本件覚せい剤が隠匿されていることを全く知らなかったのであるから,原判決には事実の誤認がある。そして,この誤認は,原判決が,「通常,旅行者は,自ら携行する物品につき,その内容物が何であるかを含めて十分に把握していると考えられる」との経験則を本件にも適用した上,これを前提に,被告人が,本件覚せい剤が知らないうちに本件スーツケース内に隠匿されていたことに関する事情や心当たりについて合理的な説明ができない限り,このこと自体から,被告人が,本件覚せい剤が本件スーツケース内に隠匿されていたことを知っていたものと推認される旨説示しているとおり,その推認を非常に強いものと設定した結果,実質的に被告人に無罪の立証責任を負わせるという誤りを犯したことにより生じたものである。このように,原判決の根拠のない不利益推認は,自由心証主義に違反するとともに,適正手続(憲法31条)にも違反する訴訟手続の法令違反というべきであり,その結果,原判決は,合理的な疑いを超える証明がないのに,被告人に違法薬物を輸入する旨の認識があったと認めて,被告人を有罪としたものであるから,この訴訟手続の法令違反及び事実の誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである,というのである。
2 そこで,原審記録を調査し,当審における事実取調べの結果も合わせて検討すると,被告人において,本件スーツケースを日本に持ち込むに当たり,その中に何らかの違法薬物(覚せい剤を除外していない。)が隠匿されていることを概括的にせよ認識(以下「違法薬物輸入の認識」ともいう。)していた旨認定するには,合理的な疑いを差し挟む余地があり,したがって,これを肯認することができるとして本件覚せい剤取締法違反及び関税法違反の事実につき被告人を有罪と認めた原判決は,証拠の評価を誤り,事実を誤認したものといわざるを得ない。以下に順次検討する(なお,以下の原審の甲号証と乙号証の番号は,それぞれ原審の証拠等関係カード(甲)と同カード(乙)における検察官請求証拠の番号を示し,原審の弁号証の番号は,同カードにおける弁護人請求証拠の番号を示し,当審の弁号証の番号は,当審の証拠等関係カードにおける弁護人請求証拠の番号を示す。)。
3 前提事実
 関係証拠によれば,前提となる客観的事実として,次のような事実が認められる。
(1) 被告人は,11月4日(現地時間)に,単身,航空機でマレーシアのクアラルンプール国際空港を出発し,同月5日午前7月15分ころ,成田国際空港に到着して,本件スーツケースを機内預託手荷物として日本に持ち込み,同日午前7時45分ころ,原判示の旅具検査場において,携行した本件スーツケースにつき,税関職員のAによる携帯品検査を受けた。
(2) Aは,英語で被告人とやり取りして,被告人に旅券のほか,被告人の書いた携帯品・別送品申告書(CUSTOMS DECLARATION)を提示させた上,被告人に対し,その裏面に列記された輸入禁制品等を指し示したり,申告しょうよう板に写真付きで掲載された輸入禁制品等を逐一指し示して,そうした物品を持ち込んでいないことを確認するとともに,被告人の同意を得て,第7番免税検査台上で,本件スーツケースの中身を全部取り出して確認したところ,その下蓋部分に厚みが感じられ,さらに,本件スーツケースを持ち上げて揺らしてみると重量感も感じられたことから,税関職員のBに,エックス線検査を依頼して引き継いだ。
(3) Bは,英語で被告人とやり取りして,まず被告人に対し,何か申告する物品がないかと尋ね,そうした物品がないとの回答を得て,被告人にその旨を確認票(CONFIRMATION。チェック式のもの)に記載させた後,被告人の同意を得て,最寄りのエックス線検査台に本件スーツケースを持っていってエックス線検査を行ったところ,本件スーツケースは空であるはずなのに,異影(四角状の固形物。以下「本件異影」ともいう。)が映し出された。そこで,Bは,被告人を待たせていた第7番免税検査台のところに立ち戻り,いったん取り出しておいた本件スーツケースの内容物をその中に戻した後,被告人の同意を得て,1号検査室に被告人を同行した。
(4) Bは,1号検査室において,再度被告人に申告しょうよう板を見せて,そこに記載されたような物品は持ち込んでいない旨の回答を得た後,応援の女性税関職員の英語による通訳で,被告人の同意を得た上,被告人の身体検査を行い,次いで,被告人も立ち会わせて,本件スーツケースの重量を計測した後,再度,空の状態の本件スーツケースのエックス線検査を行い,エックス線装置に映し出された本件異影を被告人にも見せた上,被告人とともに同検査室に戻った。
(5) 税関職員のCは,そのころ1号検査室に入り,同室において,その後やって来た職業通訳人による英語の通訳を介するなどしながら,本件スーツケースの解体に同意するよう被告人を説得し,被告人にその解体同意書を書かせた。その後,税関職員らが,同日午前9時35分ころから,本件スーツケースの解体検査を行ったところ,その下蓋部分の二重底になった透き間から,ビニール袋2袋に分包されて隠匿されていた本件覚せい剤が発見された。その間,本件スーツケースを解体している途中の午前9時37分ころと午前9時40分ころの二度にわたり,同検査室の被告人が座っている机の脇の床に置かれたままになっていた被告人のショルダーバッグの中から,携帯電話の着信音が鳴り出すという出来事があった。
(6) 本件スーツケースの下蓋部分は,内張の布の下に仕切り板(同じ型のスーツケースのプラスチック製下蓋を加工して一回り小さくしたもの)がはめ込まれてビスで固定されていて二重底の構造になっており,その透き間に本件覚せい剤が隠匿されていた。そして,下蓋部分の内張の布には,全体に少ししわがよっていたほか,四隅のうち二隅に布の折り重なりとたるみがあった。
(7) 被告人は,英国の大学を卒業後,同国でIT関係の仕事をしていたが,3月に,単身で海外旅行に出かけ,東南アジア各国やオーストラリアなどを回り,10月8日にマレーシアに入国して同国内を旅行した後,同月26日にクアラルンプールに到着したものであり,犯罪歴は全くなかった。そして,被告人は,日本にやって来たのは今回が初めてであった。
 以上のとおり認められる。
4 被告人の弁解供述の内容など
(1) 被告人は,本件スーツケースを日本に持ち込んだ経緯や,その中に本件覚せい剤が隠匿されていたことに関して,原審公判供述のほか,警察官調書抄本3通(原審乙第11ないし13号証),供述録取書写し2通(各訳文添付。原審弁第1,第58号証)の中で,原判決の「争点に対する判断」(以下「補足説明」という。)の第2の3(1)掲記のとおりの弁解供述をしているところ,その内容を補足して要約すると,次のとおりである(以下,これらを「被告人の弁解供述」と総称する。)。すなわち,私は,11月2日の夜に,クアラルンプールのレストランでギリシャ人男性のD及びF(上記の被告人の警察官調書抄本中では,それぞれ「D’」及び「F’」と表記されている。)と知り合い,翌3日の未明にかけて,Dから,自分は,中国等で製造されて売れ残った衣料品を安く買い取ってマレーシアに輸入し,日本等に廉価で輸出する事業を手がけている旨の話をされた上,衣料品の販売とマーケティングのため,3000ユーロの報酬で3日間の外国出張の仕事に試用してもよいなどと持ちかけられた。私は,同日の午後に三人で昼食をとった際にも,Dから,3000ユーロの報酬(ただし,そのうち半分は出来高払い)で,日本での約3日間のマーケティング等に私を試用し,うまくいったら,Dのビジネスパートナーに加えてあげようなどと持ちかけられ,これを引き受けた。私は,その日の夜,Dとバーで夕食をとった際,連絡用の携帯電話を渡されたほか,日本での訪問先のリストや,マーケティング等に必要なプレゼンテーション用の資料等の細かいことについては,後でEメールで知らせるなどと言われた。私は,同月4日の午後に,飛行機の出発時刻が午後11時30分である旨の連絡を受けて,宿泊先のホテルをチェックアウトし,午後6時ころに,車で迎えに来たDと一緒に,ダウンタウンにある同人のアパートに行き,同人から,既に衣料品のサンプルが入れられていた本件スーツケースを受け取り,そのリストももらったほか,前日渡された携帯電話にシムカードの挿入を受けた上で,いつでも自分かFが電話に応答する旨を告げられた。そのほか,私は,Dから,ビジネスクラスの往復の航空券,横浜のホテルのバウチャー,報酬1500ユーロ,日本での仕事用のビジネススーツの購入代金等に充てる日本円2万8000円をもらったりした。そして,私は,Dの車に本件スーツケースを積んで同人と一緒に出発し,途中,Fが乗って待っていたタクシーに乗り換えて,一人で空港に行き,航空機に搭乗して日本に向かった。私は,本件スーツケースが二重底になっていて,その中に,覚せい剤を含む違法な薬物が隠匿されているとは,全く思ってもみなかった。被告人の弁解供述は,以上のようなものである。
(2) そして,被告人の弁解供述のうち,被告人がDから持ちかけられた話をどのように受け止めたのかについては,後に検討することとして,少なくとも,被告人が,クアラルンプールで,DやFと名乗る男性と知り合い,Dから,報酬を約束されて,日本における衣料品のマーケティング等を頼まれ,これを引き受けて,同人から,本件スーツケースのほか,航空券や報酬等を受け取り,これを携行して,空路日本にやって来たという客観的な経緯そのものは,被告人が旅行中継続的に書き付けて,日記として利用していた手帳やノート(当審弁第8,第9号証。以下,これらを「日記」と総称する。なお,これらは,原審において,各日記の記載状況を立証趣旨として取り調べられた原審弁第48,第49号証を,当審において,その範囲を若干広げた上で,各日記の記載内容を立証趣旨として,改めて取り調べたものである。)の記載内容や,デジタルカメラ記録画像抽出報告書(原審弁27号証)添付の被告人のカメラで撮影された多くの写真のほか,クアラルンプールで日本に出発する前の被告人と会食したGの原審公判廷での証言とも整合するものであることは,原判決が補足説明の第2の3(2)アで説示するとおりであり,したがって,この点に関する被告人の供述内容は,大筋において信用し得るものといえる。そうすると,本件スーツケースは,Dがその中に本件覚せい剤を隠匿した上,これを被告人に預けて日本に持ち込ませたものと認められるのであるが,他方,被告人が,Dから,本件スーツケースの中に本件覚せい剤が隠匿されているということを明示的に知らされていたとか,日本に到着後,本件スーツケースをだれかに渡すよう指示されていたということを認めるに足りる証拠はない。
(3) もっとも,検察官は,当審における弁論で,本件スーツケースの二重底の細工は不完全なものであり,被告人がそれに気付くことは可能であったから,被告人においては,本件スーツケースの中に本件覚せい剤が隠匿されていることを確定的に想像していながら,高額な報酬欲しさに,あえてそれに目をつぶったと推認するのが合理的である旨主張する。
 しかしながら,被告人が本件スーツケースを日本に持ち込むまでの経過を見ても,被告人において,それが二重底になっていて,その中に本件覚せい剤が隠匿されていることを認識し,あるいは,認識し得たはずであると認めることは困難である。すなわち,この点に関して,被告人は,弁解供述中で,私が,11月4日に,Dと一緒に同人のアパートに行くと,既にベッドの上に本件スーツケースが置かれていて,その下蓋部分に,衣料品のサンプルがきれいにたたんで入れられていた,私は,Dが,サンプルを良好な状態で運ぶために必要と考えて,新品のスーツケースを用意してくれたものと思った,私は,本件スーツケース内に,ほかに何も入っていないことを確認した後,衣料品のサンプルを上蓋部分に移し,下蓋部分には,自分のバックパックに入れておいた荷物を詰めた,私は,Dから,出発の時間が迫っているとせかされて,同人の車で一緒に出発した,本件スーツケースを運んで同人の車やタクシーに積み込む作業は,すべて同人やタクシーの運転手がやってくれたほか,空港でも,タクシーの運転手が本件スーツケースをカートに載せて,チェックインカウンターまで運んでくれたし,成田に到着してからは,私が,ターンテーブルから本件スーツケースを取り上げてカートに載せ,これを押して検査台まで運んだ旨述べていて,この被告人の供述の信用性を否定するような状況は見当たらない。そうすると,確かに,上記3の(6)で認定したとおり,本件スーツケースの内部を見ると,その二重底の偽装は必ずしも完璧とはいえないものの,全体としてその偽装工作はかなり精巧に行われていたと見られる上,既に見たとおり,被告人が,日本に到着後,本件スーツケースをだれかに渡すことを前提に預かったわけでもないことからすると,被告人において,本件スーツケースの中身を確認した際に,出発の時間が迫っているとせかされる中で,そうした内張の布等の状況に特に不審の念を抱かなかったとしても,決して不自然,不合理なことであるとはいえない。
 また,上記3の(2)で認定したとおり,税関職員は,本件スーツケースの下蓋部分に厚みを感じたほか,これを持ち上げて揺らしてみると重量感も感じたというのである。しかしながら,そうした検査は,いずれも本件スーツケースを空の状態にして行われたものである上,厚みの点も,Aの原審公判廷での証言によると,同人は,本件スーツケースを,検査しやすいように凹凸の付けられた検査台の上に置いて観察してみて,厚みが感じられた旨述べているのであるから,そもそも,被告人が本件スーツケースをDから受け取って携行した際とは,前提となる状況が大きく異なっているといわざるを得ないのである。したがって,被告人の述べるような,主にDやタクシー運転手が運んでくれたという本件スーツケースの運搬状況も併せ考えると,被告人が,本件スーツケースを受け取ってから日本に持ち込むまでの間に,それが二重底になっており,その透き間に覚せい剤が隠匿されているということに全く気付かなかったとしても,決して不自然,不合理なことであるとはいえない。
 以上のとおり,本件スーツケースの内部の形状やその重さ等から,直ちに,被告人に,本件スーツケースの中に本件覚せい剤が隠匿されていることの認識があったと推認することはできないし,認識し得たとも認め難い(なお,被告人がDから約束された高額な報酬等の点については後に検討するが,その点を考慮に入れても,上記の認識が全くなかった旨の被告人の弁解供述の信用性を否定することは,困難であるといわざるを得ない。)。
 したがって,この点に関する検察官の所論は,採用することができない。
(4) ところで,原判決は,補足説明の第2の2,3において,「通常,旅行者は,自ら携行する物品につき,その内容物が何であるかを含めて十分に把握していると考えられる」とし,このことを,被告人につき,本件スーツケース内に本件覚せい剤が隠匿されていることの認識,すなわち,違法薬物輸入の認識があったことを推認する論拠とした上,「被告人が,本件覚せい剤が知らないうちに本件スーツケース内に隠匿されていたことに関する事情,心当たりについて合理的な説明ができない限り,(中略)このこと自体から,被告人が,本件覚せい剤が本件スーツケース内に隠匿されていたことを知っていたものと推認される」旨説示している。
 しかしながら,既に見たとおり,被告人については,本件スーツケースを受け取ってからそれを日本に持ち込むまでの間に,それが二重底になっており,その透き間に覚せい剤が隠匿されていることを認識し,あるいは,認識し得たとは認め難いのであるから,原判決の説示するところは,そのまま本件に当てはまるものではないというべきであり,この点に関する弁護人の所論は,これと同趣旨をいう限度で正当である。
(5) そこで,これを前提に,当審における検察官及び弁護人の各弁論をも考慮に入れながら,被告人が,本件スーツケースを日本に持ち込む際に,違法薬物輸入の認識があり,ひいては,被告人に覚せい剤輸入の故意があったと認められるかどうかについて,これに関係する客観的な状況や被告人の弁解供述について,更に検討を進めることとする。
5 携帯品検査の際の被告人の言動等についての検討
 原判決の補足説明の第2の2によると,原判決は,旅具検査場における携帯品検査の際の次のような被告人の言動が,被告人に違法薬物輸入の認識があったことをうかがわせる事情と捉えているものと解される。すなわち,①本件スーツケースのエックス線検査で,その内部に明らかな異影が認められているのに,被告人がなかなかその解体検査に応じなかったこと,②本件異影の正体がまだ覚せい剤と分かっていない段階で,被告人が,自分のショルダーバッグの中の携帯電話が鳴っているのに,「私が税関で問題になっていることが分かれば,Dが逃げてしまう。」などと言って,その電話に出るのを拒否しただけでなく,弁解供述中で,この携帯電話をめぐる言動につき,税関職員の供述と矛盾する供述をあえてしていることを指摘するので,順次検討する。
(1) ①の点について
ア 確かに,Bは,原審公判廷で,1回目のエックス線検査の後,私が,本件スーツケースを持って検査台のところに戻り,被告人に対し,問題があるので別室で検査をさせてほしい旨を告げた際,被告人は,「分かりました。」とは答えたものの,落ち着きがない様子又は興奮した様子であり,さらに,私が,2回目のエックス線検査により映し出された異影を被告人に見せて,「これは何ですか。」と尋ねると,被告人は,「分かりません。」と答えて,落ち着きのない状態であった,その後,被告人は,1号検査室において,本件スーツケースの解体検査への同意を求められても,「スーツケースは預かり物なので,だれかが何かを入れたかも知れないので,怖いので同意したくない。」などと言って,解体同意書に署名するまでに四,五十分くらいかかった旨の証言をしている(なお,Bは,当審公判廷でも,これと同趣旨の証言をしている。以下「Bの証言」という。)。
 そして,検察官も,当審における弁論で,このようなBの証言を前提に,こうした被告人の言動は,本件スーツケースの中に違法薬物が隠匿されていることを認識していたがゆえの,摘発を免れるための悪あがきと考えられる上,解体検査を拒否する際の被告人の発言も,エックス線検査で,被告人が想像していたとおりの違法薬物と認められる異影が映し出され,解体検査への同意を求められて混乱に陥った被告人が,思わず吐露した内心であり,違法薬物隠匿の認識や,その発覚による処罰への恐怖を表すものであって,もし被告人が,違法薬物の隠匿を疑ってすらいなかったのであれば,無実を訴えるためにも,解体検査を拒否することは得策ではないから,無実は後に明らかになると考えて解体検査に素直に応じるはずであり,「だれかが何かを入れたかもしれない。」などといった言葉がとっさに発せられることもないはずである旨主張する。
イ この点,被告人の「落ち着きがない」又は「興奮した」様子というのが,具体的にどのような被告人の言動や状態を指すのかは,Bの証言によっても必ずしも明らかではない(なお,被告人は,弁解供述中で,私は,税関職員から,本件スーツケースの2回目のエックス線検査により映し出された異影を指で示され,「これが見えますか。」と繰り返し尋ねられたので,「はい,影が見えます。」と答えたが,検査室にたくさんの人がいて混乱状態であり,私には何が起こっているのかさっぱり分からなかったなどと述べるにとどまっている。)。
 しかしながら,差し当たり,Bの証言を前提としても,被告人は,Bから1回目のエックス線検査をしてもいいかと尋ねられた際には,これに素直に同意していて,そのときまでは,落ち着きがなかったり,興奮した様子などは格別見せていなかったというのであって,もとより,その際被告人が,口実を設けるなどして,エックス線検査そのものを避けようとするような言動にまで及んだ形跡は見当たらない。そうすると,被告人が,1回目のエックス線検査の後に,Bから,問題があるので別室で検査したい旨を告げられて,本件スーツケースの内容物に関して,自分の身に何かしら尋常でない事態が起こりつつあるのではないかとの危惧の念を抱いたことから,Bの目から見て,落ち着きを失っているなどと感じられるような態度を見せ,さらに,2回目のエックス線検査により映し出された本件異影を見せられた上,1号検査室において,その解体検査に同意するよう求められ,容易にはこれに同意しなかったことについても,被告人において,本件覚せい剤の隠匿につき全く身に覚えがなかったのに,エックス線検査により本件異影が映し出されるのを目の当たりにし,しかも,それまで税関職員から,繰り返し輸入禁制品を持ち込んでいないかどうかを具体的に確認されていたこともあって,その危惧の念が現実のものとなったことに動転し,あるいは,初めて訪れた日本で,だれにも相談できないまま一人で税関職員らと応対することを余儀なくされて,自己の置かれた状況や今後の事態の推移,自己が受けるかもしれない不利益等に強い不安を覚えたことから,解体検査への同意をためらうという行動に出たと考えても,そうした被告人の心情は,それなりに理解し得るものであって,決して不自然なものであるとはいえない。加えて,本件スーツケースにだれかが何かを入れたかもしれない旨の被告人の上記の発言についても,被告人が,そうした混乱した精神状態の下で,クアラルンプールで本件スーツケースを受け取った経緯などを思い起こした結果,とっさに,ありのままの事実と自分の心情を率直に口にしただけであるとも考えられるのである。そうすると,原判決の①の指摘及びこれと同趣旨の検察官の所論は,被告人の心情として考えられる一つの可能性を指摘したものとはいえても,必ずしも,被告人に違法薬物輸入の認識があったと考えなければ,合理的に説明することができないものではない。
(2) ②の点について
ア 確かに,Cは,原審公判廷で,本件スーツケースの解体検査の途中の,本件覚せい剤がまだ見付かっていない時点で,被告人のショルダーバッグの中に入っていた携帯電話の着信音がしたので,私が,被告人に対し,だれからの電話かと尋ねると,被告人は,しばらく迷った末,マレーシアでスーツケースを渡したDという男からであり,携帯電話は同人から連絡用に渡されたものだと答えた,その後,再度着信音が鳴ったので,私が,その携帯電話を同ショルダーバッグから取り出して,被告人に電話に出るように言ったところ,被告人は,「怖いから嫌だ。」と答えて電話に出るのを拒んだ,私が,何が怖いのかと更に被告人に尋ねると,被告人は,「私が税関で問題になっていることが分かれば,Dが逃げてしまう。」などと答えた旨の証言をしている(なお,Cは,当審公判廷でも,これと同趣旨の証言をしている。以下「Cの証言」という。)。
 そして,検察官も,当審における弁論で,このようなCの証言を前提に,被告人が,本件スーツケースの中に違法薬物が隠匿されていることなど疑いもせずに日本に到着したのであれば,本件スーツケースの中に隠匿されていた物が予試験により覚せい剤であると断定されるまでは,Dを信頼したいという気持ちが先行するはずであって,同人を犯人扱いする言動に走るのは不自然であり,このような言動は,被告人がクアラルンプールを出発する時点では,その目で違法薬物を確認しておらず,その意味で不確定的な認識であったのが,エックス線検査における異影の発見等からその認識が現実化し,さらに,Dから電話がかかってきたために,いよいよ自己の犯罪が発覚することへの不安,混乱に陥ったことで出てきたものであり,被告人に違法薬物についての認識があり,本件犯罪について故意があったことをうかがわせるものであるとか,さらには,被告人が無実であると確信していたのであれば,税関職員の求めに応じて同人に協力し,携帯電話に出てDと会話をし,その結果を訴えるよい機会と思われるところ,それにもかかわらず,被告人が携帯電話に出ることを拒否したのは,違法薬物の密輸に失敗したことがDに知られるのを恐れたか,携帯電話に出ることにより,密輸に関与したことがより明らかになることを恐れたというような理由によるものと考えるのが合理的である旨主張する。
イ この点,被告人は,弁解供述中で,私が検査室にいたときに,一度だけ携帯電話の着信音がしたのを覚えており,その際,私がこれを私のバッグから取り出したところ,税関職員にこれを取り上げられたが,私は,「この電話はDからかかっているに違いない。彼が私にこの携帯電話を渡してくれたのであるから。」と言った,私は,税関職員から,「お前は怖いんだろう。だから電話に出たくないんだろう。」と言われて,「どうして私が怖がらなければいけないのか。」「もしこれで問題があるんだったら,問題解決に走るのはあなた方でしょう。」などと答えたが,その電話に出るように言われたことはなく,私から電話への応答を拒否したこともない旨述べていて,Cの証言内容と食い違っている。
ウ そこで検討すると,上記のような被告人の発言があったとされる際の1号検査室は,多くの税関職員らが出入りする中で,本件スーツケースの解体検査が行われていた上,その最中に,携帯電話の着信音が鳴り始めるというかなり緊迫した状況下にあり,しかも,そうした中で,通訳を介して,被告人と税関職員とがやり取りをしていたというのであるから,被告人の発言内容に関するお互いの認識等に齟齬があったとしても,必ずしも不自然なことではなく,この点に齟齬があることから,直ちに,被告人が,自己の立場を有利にするために,殊更虚偽の供述をしていると決め付けることはできない(なお,Cの当審公判廷での証言によれば,当時,同人は,東欧系の外国人女性が違法薬物を密輸しようとしている旨の事前の情報を得た上で行動していて,それらしき女性の検査を行ったものの何も発見されず,そうした折に,被告人の携行した本件スーツケースから異影が発見されるという事態が発生するに至ったというのであるから,Cから上記のような追及を受けた旨の被告人の供述は,それなりに納得し得るものであるともいえる。)。
 さらに,仮にCの証言を前提としても,上記3で認定したとおり,被告人は,本件スーツケースの解体検査に至るまでに,税関職員らから,繰り返し違法薬物などの輸入禁制品を持ち込んでいないかどうかを質問されていた上,本件スーツケースのエックス線検査(2回目)により映し出された本件異影まで見せられていたというのであるから,実際にその異影が覚せい剤であることが確認されていない段階であっても,被告人においては,携帯電話の着信があった時点で既に,本件スーツケースの中に違法薬物などを含む輸入禁制品が隠匿されていることを察知し得たと考えても,決して不合理なこととはいえない。そして,その結果,被告人が,クアラルンプールで本件スーツケースを受け取った経緯などを思い起こし,Dから欺かれて,輸入禁制品と思われる物を隠匿した本件スーツケースを預けられたことを察知し,同人とこれ以上の関わりを持つと,一層抜き差しならない状況に陥るのではないかと恐れて,そうなるのを避けたいとの思いから,着信があったその電話に出ることを拒んだり,そのような行為に及んだ同人が,事の次第を察して逃げてしまえば,自己の陥った抜き差しならない状況から逃れることもできなくなってしまう旨危惧したあげく,とっさに「Dが逃げてしまう。」というような上記の発言に及んだと考える余地もある。しかも,被告人は,税関職員に対し,その携帯電話がDから連絡用に預かったものであることについては,若干迷ったとはいえ,事実をありのままに告げているのであり,そのことを隠そうとはしていない。そうすると,原判決の②の指摘及びこれと同趣旨の検察官の所論についても,そのように考えなければ被告人の言動を合理的に理解することができないとまではいえず,結局,被告人に違法薬物輸入の認識があったと考えなければ,合理的に説明することができないものではない。
(3) 以上のとおり,原判決が補足説明の中で,被告人に違法薬物輸入の認識があったことをうかがわせる事情として指摘する①及び②の点はいずれも,別の見方も十分に可能なものであり,これらを合わせてみても,被告人に違法薬物輸入の認識があったと認定するには,なお合理的な疑いを差し挟む余地があるといわざるを得ない。
 したがって,この点に関する検察官の所論も,いずれも採用することができない。
6 被告人の弁解供述の不自然さについての検討
(1) そこで進んで,本件スーツケースを日本に持ち込むに至った経緯や状況に関する被告人の弁解供述について,被告人に違法薬物輸入の認識があった旨の認定に結び付くような,不自然な点や不合理な点があるかどうかを検討することとする。
(2) この点,原判決は,補足説明の第2の3(2)において,要約すると,被告人がDから依頼されたという日本での衣料品のマーケティング等の話は,次のような点を考慮すると,客観的に見て,実行し実現する可能性が極めて乏しいものであるから,最後まで同人の話に不審の念を抱かず,本件スーツケース内に覚せい剤を含む何らかの違法薬物が隠匿されていたことを全く知らなかったという被告人の供述は,そのまま信用することができない旨説示する。すなわち,①被告人は,マーケティング等の経験がほとんどないだけでなく,日本に行くのは初めてで,日本語を話すこともできず,日本でマーケティング等を行うのに必要な基本的な素養をほとんど持ち合わせておらず,しかも,街中で知り合ったばかりの相手からの依頼を受け,商品の特性や訪問先の業者等に関する基本的な情報すらほとんど与えられず,資料等も持たされないまま,依頼からわずか2日間程度で日本に赴いたこと,②被告人の日本での滞在予定は,わずか3日間にすぎず,日本でマーケティング等を行うための能力に極めて乏しい被告人が,このような短期間で十分な成果を上げることはほとんど不可能であること,③被告人が持ち込んだサンプルは,16点程度の衣料品にすぎず,いずれも梱包されずに剥き出しの状態で,被告人自身の荷物と区別なく本件スーツケースに収納されており,わずかとはいえしみやほつれが見られるものも一,二点あったほか,Dから渡されたというサンプルのリストと各サンプルに付されたタグとの間で,アイテムコードの合致しないものもあるばかりか,そのリストには,色のバリエーションと販売価格程度しか記載されていないなど,マーケティング等のために必要となる情報はほとんど記載されておらず,総じて,被告人が述べるような交渉に耐え得るものではないことを指摘した上,さらに,④被告人が依頼されたと述べるマーケティング等は,ビジネスモデルとして成功して利益を上げる客観的可能性が極めて乏しいものであるにもかかわらず,歩合部分も含めて3000ユーロ(当時の公示相場で円に換算すると39万円余り)もの報酬の支払いが約束されていたほか,クアラルンプール・東京(成田)間のビジネスクラスの航空機往復搭乗券が用意され,日本での滞在費用として2万8000円の現金まで渡されていたというのであり,依頼された仕事の内容に比してその報酬等は不釣り合いに高額であって,客観的に見て不合理なものである,というのである。
(3) そこで,関係証拠を総合すると,原判決の①ないし④の指摘において前提とされた各事実そのものは,おおむねそのとおり認めることができる。そうすると,客観的に見る限り,被告人が日本にやって来た理由として述べる,Dから依頼された衣料品のマーケティング等の話は,その成果を上げることがほとんど期待できないものである反面,約束された報酬等が,依頼内容に比して不釣り合いに高額であることは否めず,被告人の知人であるHの当審公判廷での証言等により,被告人には衣料品に関する知識が全くなかったわけではないとうかがえることを考慮しても,そうした被告人の弁解供述の不自然,不合理な点が,ひいては,被告人がDの話を信用していて,本件スーツケースの中に本件覚せい剤などの違法薬物が隠匿されているとは思ってもいなかった旨の被告人の弁解供述の信用性そのものにも,多大な疑問を生じさせることは,否定し難いように思われる。
 しかしながら,以下に見るとおり,被告人に関しては,この点につき必ずしも別異に解することができないわけではなく,少なくとも,被告人の弁解供述に不自然,不合理な点があるからといって,直ちに,被告人に違法薬物輸入の認識があった旨合理的な疑いを超えて認定し得るものではないと考えられる。
ア まず,Dという人物に関して,被告人は,弁解供述中で,私は,11月3日の昼に,Dらと一緒に昼食をとった際,Dの父親が,ギリシャで電気製品の輸出入業をして成功していることや,Dの会社では,事業活動を欧州に拡大し,英国にも支店を置くことを計画していることなどを聞かされた上,同人が,既に日本の業者とも取引を行っていて,今回の訪問先にも既に取引のある業者が含まれていることや,日本のビジネスマンは英語ができるので,英語の上手な私なら十分にやれるといった趣旨のことも言われたほか,今回の試用がうまくいったら,私をDのビジネスパートナーに加えてあげようとも言われた,そこで,私は,ホテルに戻ってから,日本での訪問先の会社や,交渉の際の値引率など,Dに教えてもらいたい事項をメモに書いたりして,その日の夜に同人と会った際に尋ねたりした,私は,その日の夜に,郊外にあるDのアパートメント・ハウスにも招かれたが,24時間警備員が常駐し,部屋が5室でプールまで付いている豪華な邸宅であり,部屋にパソコンなどもあって,そこが仕事場であると思った,私は,朝になって,車で私のホテルに送ってもらった,その日,私は,Dのオフィスに行って衣料品のサンプルを見せてもらう予定であったが,急に仕事が入ったということで同人からキャンセルされたなどと述べているところ,被告人が,その当時のDとのやり取りや自己の行動等に関して,殊更虚偽の供述をしていることをうかがわせるような状況も特に見当たらず,また,この供述内容の主要な点につき,これを裏付ける写真(原審弁27号証添付のもの)なども存在することから,おおむね被告人の述べるような状況があったものと認めることができる。
イ そうすると,既に検討したとおり,客観的に見ると,被告人がDから依頼された衣料品のマーケティング等の話には,種々の不自然,不合理な点があるといわざるを得ないのであるが,同時に,被告人において,Dにおだてられ,あるいは,言葉巧みに言いくるめられていったという状況もうかがうことができるのであり,その結果,被告人が,Dを信じ切って,同人から依頼されて引き受けたマーケティング等の話にも,被告人なりに真摯に取り組む姿勢を示していたことは,否定し難いところといえる(なお,被告人の弁解供述によると,被告人が,本件スーツケースを受け取って,中に入っていた衣料品を確認した際,いくつかの不具合があることに気付いて,その場にいたDに尋ねたり,電話でFに確認したりしたものの,言葉巧みに言い訳をされ,あるいは,言い抜けられたあげく,出発の時間が迫っているとせかされて,その点につき深く問いただすこともできないまま,空港に向かうことになったという経緯もうかがわれる。)。しかも,被告人が,試用という前提ではあるが,思いも寄らぬ好条件の仕事の依頼を受けて,いわば有頂天となり,そうした高ぶった気持ちが,日本に着くまでの間一貫して続いていたということも,日記の記載内容や上記の写真から十分に看取することができるのである(とりわけ,被告人が,Dらと一緒に歓談しているところを写した写真のほか,クアラルンプール国際空港を出発する際や,日本に向かう航空機内や成田国際空港に到着した際に写した一連の写真を見ても,被告人のそうした心情がその表情等に如実に表れているとはいえても,被告人において,Dらに欺かれているのではないかといった不安や,本件スーツケースの中に違法薬物等の輸入禁制品が隠匿されていて,それをひそかに日本に運ぶ仕事をさせられているのかもしれないといった不安を抱えているような様子は全くうかがえない。)。その意味で,被告人が,弁解供述中で,DもFも親切で友好的で優しく,かつ,信頼に値し,勤勉で,成功したビジネスを運営する富裕な紳士のように見えた旨述べているのも,その当時の被告人の偽らざる心情や認識を語ったものと見ることが十分に可能であるといえる。
 要するに,被告人において,知り合ったばかりの人物の話を,いとも簡単に信じ込んでしまった点については,軽率に過ぎるとか,あまりにも世間知らずであるといった非難を免れず,また,自己評価が高過ぎることや,思い込みの強さというような被告人の行動傾向や性格上の欠点も指摘することができるとはいえ,被告人がDらのことを信用に値する人物と考え,Dから持ちかけられた話を信じ込んでしまったということ自体は,疑う余地のないことと考えられるのであり,そのため,被告人が,Dから持ちかけられたマーケティング等の話の不自然,不合理さを意に介さなかったか,あるいは,多少の違和感を覚えたとしてもそのことにさほど注意を向けず,深くは考えなかったということが,決してあり得ないこととはいえないというべきである。そして,同人から依頼された仕事の内容に比して,被告人の受け取る報酬等が不釣り合いに高額であることについても,被告人の弁解供述によれば,Dが私の能力を買ってくれたとか,私が頑張って成果を上げれば釣り合うであろうなどと,不審の念を抱く契機としてではなく,むしろそれをいわば発奮材料として(その反面,自分に都合よく)捉えようとしていたことがうかがえるのであって,その当否の点はともかく,日記等からうかがえる被告人の性格等をも考慮すると,この点もあながち理解し得ないものではない。
ウ この点,検察官は,当審における弁論で,日記に書かれた,日本でのマーケティング等に関する被告人の意欲などは,被告人の本心を記載したものではなく,犯行の発覚に備えた虚偽の記載と見るべきであり,百歩譲っても,違法薬物の密輸に関与することになるかも知れないという不安を抱きつつ,Dの話が本当であって欲しいとの思いで記載した願望にすぎない旨主張する。しかしながら,日記の記載を全体的に見てみると,同人と初めて会った11月2日より前の出来事や被告人の心情なども,その都度ありのままに書かれていると見られるのであり,同日の前後で,記載内容等に目立った変化などもうかがえないことも併せ考えると,この点の検察官の所論は,採用することができない。
 また,検察官は,当審における弁論で,上記(2)掲記の原判決の説示に付加して,①被告人がDと会ったのは,専ら飲食店であり,被告人は,Dの会社,事務所,店舗などに行ってはいないし,行こうともしていないこと,②同人の履歴が,旅券その他の客観的資料により確認できず,被告人もその確認をしようともしていないこと,③被告人が,Dから依頼を受けた話に関し,最も信頼する家族からの助言を得ておらず,得ようともしていないことを指摘した上,これらも合わせると,被告人の弁解供述は,全く信用することができない旨主張する。しかしながら,①及び②の点については,上記アで見たとおり,被告人は,郊外にあるDの豪華なアパートメント・ハウスに招かれたことがあり,そこが同人の仕事場であると考えていたことがうかがえるほか,同人のオフィスに行って衣料品のサンプルについて説明を受ける予定であったところ,急な用事が入ったとして同人からキャンセルされたというのであるから,そうした状況をも考慮すると,所論の指摘する点から直ちに,被告人がDの話を信じたということが,不自然,不合理で理解し得ないとまではいえない。また,③の点についても,被告人が,英国を出て半年以上にわたる海外旅行をしていた中で,3日間程度の日程で日本に仕事に行くことについて,母国の家族に相談するほどのことではないと考えたとしても,必ずしも理解し得ないものではない。
 したがって,この点の検察官の所論も,いずれも採用することができない。
エ 以上のとおり,被告人の弁解供述には不自然,不合理な点が多々あるとはいえ,被告人が,Dのことを信じ切っていて,同人から持ち掛けられたマーケティング等の話に現実味が乏しいことに気付かなかったか,あるいは,さほど意に介さなかったと見ることも,十分に可能であると考えられるのである。そうすると,本件スーツケースの中に覚せい剤を含む何らかの違法薬物が隠匿されていたことを全く知らなかったという趣旨の被告人の弁解供述も,あながち排斥し難いものといわざるを得ない。すなわち,被告人がDから渡された本件スーツケースが二重底に偽装されていて,その中に違法薬物が隠匿されているということを,被告人において概括的又は未必的にせよ認識していたと認めることには,合理的な疑いを差し挟む余地があり,したがって,この点に関する原判決の認定判断は,是認することができない。
7 結論
 以上要するに,被告人が,本件スーツケースを日本に持ち込むに当たり,その中に覚せい剤を含む何らかの違法薬物が隠匿されていたことにつき概括的な認識があったと認定することができるとして,被告人に本件覚せい剤取締法違反及び関税法違反の故意があったと認めた原判決は,証拠の評価を誤り,事実を誤認したものといわざるを得ず(もっとも,原判決の証拠の評価の誤りについては,所論のいうように実質的に被告人に立証責任を負わせたという誤りがあるとまではいえないから,原判決に訴訟手続の法令違反があるとはいえない。),本件覚せい剤取締法違反及び関税法違反の事実に関するその余の要件について判断するまでもなく,この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
 論旨は,この限度において理由がある。
第3 破棄自判
 以上の次第で,刑訴法397条1項,382条により原判決を破棄し,同法400条ただし書により被告事件について更に判決する。
 本件公訴事実は,上記第2の1掲記の原判決の罪となるべき事実と同じであるが,この公訴事実については,既に判断を示したとおり犯罪の証明がないことに帰するから,同法336条により,被告人に対し無罪の言い渡しをすることとする。
 よって,主文のとおり判決する。
平成22年12月9日
東京高等裁判所第4刑事部
裁判長裁判官  岡田雄一
裁判官  川口政明
裁判官  土屋哲夫

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