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強姦東京

最高裁判所第2小法廷判決/平成22年(あ)第509号

主文

原判決及び第1審判決を破棄する。
被告人は無罪。

理由

 弁護人前田裕司ほかの上告趣意は,事実誤認の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
 しかしながら,所論に鑑み,職権をもって調査すると,原判決及び第1審判決は,刑訴法411条3号により破棄を免れない。その理由は,以下のとおりである。
第1 本件公訴事実及び本件の経過
 本件公訴事実の要旨は,「被告人は,通行中の女性(当時18歳)を認めてにわかに劣情を催し,同人を強いて姦淫しようと企て,平成18年12月27日午後7時10分頃,千葉市中央区内の路上において,同人に対し,『ついてこないと殺すぞ。』などと語気鋭く申し向けて脅迫するとともに,同人のコートの袖をつかんで引っ張るなどの暴行を加え,同人を同所から同区内のビル北側外階段屋上踊り場まで連行し,同日午後7時25分頃,同所において,同人に対し,同人を壁に押しつけ,左腕で同人の右脚を持ち上げるなどの暴行を加え,その反抗を困難にした上,無理矢理同人を姦淫した。」というものである。
 本件公訴事実について,被告人は,本件当日,報酬の支払を条件に上記女性(以下「A」という。)の同意を得て,本件現場にAと一緒に行き,手淫をしてもらって射精をしたが,現金を渡さないまま逃走したと供述し,暴行,脅迫及び姦淫行為の事実を否認したところ,第1審判決は,本件公訴事実のとおりの被害を受けたとするAの供述の信用性を認め,公訴事実と同旨の犯罪事実を認定し,被告人を懲役4年に処した。被告人からの事実誤認を理由とする控訴に対し,原審は,改めてAの証人尋問を実施した上で,Aの第1審及び原審での供述の信用性は十分認めることができるとして,第1審判決の事実認定を是認し,控訴を棄却した。
第2 当裁判所の判断
1 当審は法律審であることを原則としており,原判決の事実認定の当否に深く介入することにはおのずから限界があり,慎重でなければならないのであって,当審における事実誤認の主張に関する審査は,原判決の認定が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきであることはいうまでもない(最高裁平成19年(あ)第1785号同21年4月14日第三小法廷判決・刑集63巻4号331頁参照)。
2 関係証拠によれば,次の事実が明らかである。
(1) 被告人は,平成18年12月27日午後7時10分頃,京成電鉄の千葉中央駅前の歩道付近で,たまたま通り掛かったAに声を掛け,会話を交わし,その直後に,被告人とAは,同所から約80m離れた本件ビルに歩いて移動し,階段を上り,本件現場に至った。被告人とAとは初対面であった。
(2) 本件は,同日午後7時25分頃,本件ビルの北側外階段屋上踊り場において発生した出来事であり,その際,被告人は射精し,その精液がAの着用していたコートの右袖外側の袖口部分の表面及び裏面に付着した。被告人は,射精後,本件現場を離れ,1人で本件ビルから立ち去った。
(3) 本件ビルの警備員は,同日午後7時20分頃,制服を着用して本件ビルを警備のため巡回した際,本件現場にいた被告人とAのすぐ近くを通り掛かったが,そのまま通り過ぎた。
(4) Aの勤務先飲食店の経営者及び従業員は,Aを伴い,同日午後8時30分頃,本件ビル地下1階の警備室を訪ね,警備員らにAが本件現場で強姦被害に遭った旨を訴えたが,警備員らと口論となり,警備員らの通報を受けて警察官が臨場した。その際,Aは,警察官に対し,強姦被害に遭ったことと,その際に警備員が本件現場を通り掛かったことを申告した上,その場にいる複数の警備員の中から通り掛かった警備員を特定した。
(5) 被告人は,平成20年6月に東京都足立区内で,報酬の支払を条件にマンションの階段踊り場で女性に対し,自ら手淫行為をする様子を見るように依頼し,その同意を得て同女の手のひらに射精したのに,報酬を支払わずに逃走したため,同女が警察に被害申告する事態となり,付近で発見され,事情聴取を受けた。この件は事件にならないものとして処理されたが,その際遺留された被告人の精液のDNA型鑑定から,Aのコート袖口部分に付着した精液との同一性が判明し,被告人は,本件について検挙されるに至った。
3 第1審判決は,Aの被害状況に関する供述については,屋上踊り場において被告人が射精し,Aが着ていたコートの右袖外側の袖口部分に被告人の精液が付着していたという事実に符合すること,下着を脱がされた際にパンティストッキングが破れたので,近くのコンビニエンスストアで新しいものを購入し,履き替えたという供述については,本件犯行直後の時間帯に同店でパンティストッキングが販売された旨の販売記録により一応裏付けられていること,勤務先飲食店でのミーティングに出席後,同店で出す飲料水等を買いに出たAが,これらを買うことなく同店に泣き顔で戻り,心配して理由を尋ねた同店従業員らに対し,本件被害事実を申告したという経緯は,Aが供述するような被害に遭った女性の行動として自然かつ合理的なものであること,警備室を訪れた際に通り掛かった警備員を識別して申告しており,事実を真摯に訴えようとしている姿勢がうかがわれること,Aが虚偽の供述をする動機が見当たらないことなどが認められ,これらに照らせば,Aの供述は,その供述内容にやや不自然な側面があることを考慮しても,全体として十分信用できる旨判示した。
 原判決は,Aの本件被害に関する供述については,①被害直後の勤務先飲食店の従業員らに対する訴え及びその後の警察での供述,②その約1年9か月後に被告人が本件について検挙された段階の検察官に対する供述,③第1審での公判供述,④その約9か月後の原審での公判供述があって,その内容は,細部についてはともかく,基本的に一貫していること,第1審及び原審での各公判供述の際に弁護人の反対尋問に対して動揺していないことなども判示して,第1審判決の上記判断を是認した。
4 所論は,被告人から暴行,脅迫及び姦淫行為を受けたというAの供述は,供述自体が不合理,不自然であって,客観的状況ともそごしているなどとして,信用できないと主張する。
 そこで検討すると,本件公訴事実のうち,暴行,脅迫及び姦淫行為の点を基礎付ける客観的な証拠は存しない。そうすると,上記事実を基礎付ける証拠としては,Aの供述があるのみであるから,その信用性判断は特に慎重に行う必要がある。Aは,午後7時10分頃,人通りもある駅前付近の歩道上で,被告人から付近にカラオケの店が所在するかを聞かれ,それに答えるなどの会話をしている途中で突然「ついてこないと殺すぞ。」と言われ,服の袖をつかまれ,被告人が手を放した後も,本件ビルの階段入口まで被告人の後ろをついて行ったと供述する。しかし,その時間帯は人通りもあり,そこから近くに交番もあり,駐車場の係員もいて,逃げたり助けを求めることが容易にできる状況であり,そのことはAも分かっていたと認められるにもかかわらず,叫んだり,助けを呼ぶこともなく,また,本件現場に至るまで物理的に拘束されていたわけでもないのに,逃げ出したりもしていない。これらのことからすると,「恐怖で頭が真っ白になり,変に逃げたら殺されると思って逃げることができなかった。」というAの供述があることを考慮しても,Aが逃げ出すこともなく,上記のような脅迫等を受けて言われるがままに被告人の後ろを歩いてついて行ったとするAの供述内容は,不自然であって容易には信じ難い。また,Aは,本件現場で無理矢理姦淫される直前に,被告人やAのいる1m50cm程度のすぐ後ろを制服姿の警備員が通ったが,涙を流している自分と目が合ったので,この状況を理解してくれると思い,それ以上のことはしなかったと供述している。しかし,当時の状況が,Aが声を出して積極的に助けを求めることさえ不可能なものであるかは疑問であり,強姦が正に行われようとしているのであれば,Aのこのような対応は不自然というほかなく,この供述内容も容易に信じ難い。
 以上によれば,Aは,被告人に対して抵抗することが著しく困難な状況に陥っていたといえるかは疑問であり,Aのいうような脅迫等があったとすることには疑義がある。
 次に,姦淫の有無については,Aは,20cm余りの身長差のある被告人に右脚を被告人の左手で持ち上げられた不安定な体勢で,立ったまま無理矢理姦淫された旨供述するが,これは,わずかな抵抗をしさえすればこれを拒むことができる態様であるし,このような体勢においては被告人による姦淫が不可能ではないにしても容易でなく,姦淫が行われたこと自体疑わしいところである。加えて,そのように供述するにもかかわらず,本件当日深夜に採取されたAの膣液からは,姦淫の客観的証拠になり得る人精液の混在は認められなかったし,膣等に傷ができているなどの無理矢理姦淫されたとするAの供述の裏付けになり得る事実も認められなかった。このほか,Aがコンビニエンスストアのゴミ箱に捨てたと供述する破れたパンティストッキングは,直後の捜査によっても発見されていない。さらに,Aは,破れたパンティストッキングを捨てた後,当初は,コンビニエンスストアで新たにパンティストッキングのみを購入したとしていたのを,その後,コンビニエンスストアでのレジの記録からこれに符合する購入が認められないとなると,第1審では何かを一緒に購入したかもしれないとして,レジの記録に沿うよう供述を変化させ,原審では飲物を買ったような記憶があるとしており,供述内容に変遷が見られる。このように,姦淫行為に関する一連のAの供述は,不自然さを免れず,姦淫行為があったとすることには疑義がある。
 他方,被告人は,3万円の現金をチラシにはさんでAに見せながら,報酬の支払を条件にその同意を得て,本件現場にAと一緒に行き,手淫をしてもらって射精をしたなどと供述しているところ,その供述内容と同様の前記2(5)の事実が存すること,被告人は,日頃からそのような行為にしばしば及んでいた旨供述するところ,被告人の携帯電話中に保存されていた写真の中には,そうした機会に撮影されたと見られるものが相当数存することなどの事情を併せ考慮すると,本件に関する被告人の供述はたやすく排斥できない。
5 原判決の事実認定の当否の審査は,前記のとおり,論理則,経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきところ,第1審判決及び原判決が判示する点を考慮しても,上記のような諸事情があるにもかかわらず,これについて適切に考察することなく,全面的にAの供述を信用できるとした第1審判決及び原判決の判断は,経験則に照らして不合理であり,是認することができない。したがって,被告人が本件公訴事実記載の犯行を行ったと断定するについては,なお合理的な疑いが残るというべきであり,本件公訴事実について有罪とするには,犯罪の証明が十分でないものといわざるを得ない。
第3 結論
 以上のとおり,被告人に強姦罪の成立を認めた第1審判決及びこれを維持した原判決には,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があり,これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
 そして,既に第1審及び原審において検察官による立証は尽くされているので,当審において自判するのが相当であるところ,本件公訴事実については犯罪の証明が十分でないとして,被告人に対し無罪の言渡しをすべきである。
 よって,刑訴法411条3号により原判決及び第1審判決を破棄し,同法413条ただし書,414条,404条,336条により,裁判官古田佑紀の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官須藤正彦,同千葉勝美の各補足意見がある。
 裁判官須藤正彦の補足意見は,次のとおりである。
 私は,多数意見に賛同するものであるが,被告人の暴行,脅迫についてのAの供述の信用性に関連して,以下の点を指摘しておきたい。
1 関係各証拠によれば,本件当時,被告人は,年齢が48歳で,それまでの四,五年の間,見知らぬ女性に100回以上にわたり手淫等の性行為に協力させていることを自認し,現に,本件発生より約1年半後の多数意見第2の2(5)の事件においては,行きずりの女性に報酬支払を装いつつ同様の性行為に及び,携帯電話には本件より前の同様の性行為に際して撮影したとみられる淫らな写真が数多く保存されている。このことよりすると,被告人には,街頭で行きずりの女性に声を掛け,巧みに虚言を用いて金銭で刺激するなどしてその女性を性行為の場所まで被告人について来させるという行動傾向があることが看取される。しかして,一般的には,古田裁判官が反対意見で指摘するとおり,通行人がいる路上であっても粗暴な威圧的言動で女性が恐怖を感じてパニックに陥り,後日に振り返ってみれば何とも不可解なほどの無抵抗状態になって,犯人の意のままになることが実態としてあるところであるが,上記のような行動傾向や実体験の積み重ねがある被告人にあっては,強姦するため本件のような時間帯,場所で声を掛けた上,本件犯行現場のような別の場所に連れ込もうとするとしても,粗暴な威圧的言動によってAをついて来させるという手口は,上記の言葉巧みに虚言を用いて誘い込む方法が容易であり,かつ,安全であるのに比して,駅前の路上やそこから80mも離れた本件現場までの間では,Aが通行人等に対して助けを求めたりする行動に出るというリスクが大きいことが歴然としていたものである。しかして,人は,ある同一目的を達成するための手段として,自分にとって容易であり,かつ安全な行動とその逆の困難かつリスクを伴う行動との二つの選択肢がある場合は,特段の事情がない限り,前者の行動を採り,かつ,その二つの選択肢相互の落差が歴然としているほどにその傾向は顕著であるというのが,我々の経験則といえるから,被告人においても,この経験則に照らして,特段の事情がない限り,そのようなリスクの大きい手口の行動に出ることは考えにくい。しかるところ,本件においては,特段の事情は何ら証明されていないから,結局,被告人の上記の特徴的な行動傾向の下では,Aが,被告人から駅前の路上で出会った直後に唐突に,又は豹変して,「ついてこないと殺すぞ。」と言われ,そのコートの袖をつかまれたといった脅迫等を加えられたと述べる点は上記の経験則に照らして考えにくいのであって,Aの上記証言の信用性には疑問を抱かざるを得ない。原判決は,被告人の行動傾向のような重要な事実について考慮を払うことなく,Aの証言が信用できるとしているのであって,そのような信用性判断には経験則違反があるといえる。したがって,原判決の事実の認定については合理的な疑いがあるというべきである。
2 なお,争いがない点のみを見ても,Aはその意に反して,かつ何らの対価もなしに被告人から手やコートの袖口に精液を掛けられたものであり,その後始末を余儀なくされた。このことから,Aは強い屈辱感,不快感を味わわされたことは明らかで,この点だけからでも,Aが抱いた被害感情は相当強かったことが十分考えられるところである。まして,当時18歳のAとしては,12月末の夜の階段踊り場で,右脚側でパンティストッキング,パンティ等を脱がされ,右脚を被告人の左手で持ち上げられ,姦淫され(もっとも,この姦淫の点は,符合する客観的事実がなく,判然としない。),その結果,パンティストッキングを買い替えさせられたとすれば,極めて強い被害感情を持つのは明らかであって,被告人に対して許し難い気持ちになることもまた当然と思われる。また,Aは,被告人からこのような予期しない被害を受けたため,用務とされていた買物もできないまま勤務先のキャバレークラブに戻ることとなったものであり,その説明も必要であったと考えられる。さらに,同僚従業員がAの強姦被害を受けたとの申告で勢い込んだという状況もある。これらの事情は,Aが帰店時に示していた様子の意味合いや本件現場に行くに至った経緯に関するAの供述の信用性を判断する上で,十分に考慮する必要があると思われる。そうすると,原判決が,Aにおいて捜査段階から公判段階まで一貫して脅迫等について意図的に虚偽の供述をし続ける動機は考えられないとしていることには疑問が残る。
3(1) 被告人の駅前の路上での脅迫等の事実を裏付けるべき証拠としては,Aの供述が唯一のものであるところ,以上に述べた諸点よりするとその信用性には疑問があるから,原判決がこのAの供述部分を全面的に信用できるとして脅迫等の事実を認定した過程には,論理則,経験則等に照らして不合理な(自由心証主義の限界を超える)点があり,公訴事実について合理的な疑いを超えた証明がなされていないというべきである(もっとも,被告人の意思でAを本件現場に連れて行き,かつ,Aの着衣に被告人の精液が付着していること,被告人の供述には重要な点でにわかには納得し難い変遷があること,被告人がしばしば行ってきたという手淫関連の性行為と姦淫とは一般に密接な連続性があることなどからしても,被告人の弁解にも不自然,不合理なところがある。結局のところ,被告人の駅前の路上での脅迫等の事実については真偽不明であるということである。)。
(2) ところで,脅迫等の事実の存否やそれを左右する供述の信用性は事実認定の領域の問題である。事実審裁判所は,証拠調べを直接に行い,供述態度が真摯であるかどうかという点を含めて,関連する事実や証拠等との関連で,かつ,十分な問題意識を持って供述の信用性の判断を丹念に行うであろうから,そこでの事実認定は,直接主義,口頭主義の観点からしても,第一次的に尊重されるべきであって,書面のみによる間接的な審理を行うだけの当審が,供述の信用性や事実認定の当否に介入することは基本的に慎重であるべきだろう。だが,根源的にいえば,刑事司法は,被疑者,被告人の人権保障の役割を果たす性格を有する。特に,最高裁判所は最終審であり,犯罪を犯していない被告人を救済する最後の砦である。そのことに照らせば,上告審たる当審といえども,本件において,原審までに現れている関係各証拠を所与の前提としてではあるが,これを比較検討し,Aの供述内容の信用性について,論理則,経験則等に照らして判断することは当然容認されることである。そして,その判断の結果,被告人の犯罪事実について合理的な疑いを超えた証明がなされていないとされるならば,重大な事実誤認として職権を発動することに躊躇すべきではないであろう。犯罪を犯した者を犯罪者としないことは疑いもなく不正義である。だが,犯罪を犯していない者を犯罪者とすることは,国家による人権侵害を惹起し,許され得ない不正義に当たる。強姦罪を犯したことにつき合理的な疑いを超えた証明がなされたとはいえない本件被告人については,「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則に戻るべきである。
 裁判官千葉勝美の補足意見は,次のとおりである。
 私は,被告人に強姦罪の成立を認めた第1審判決及びこれを維持した原判決には,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があるとする多数意見について,次の点を補足しておきたい。
1 刑事裁判における証拠評価等について
(1) 多数意見が述べるとおり,当審が行う原判決の事実認定の当否の審査は,事後審査によって,「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認がある」(刑事訴訟法411条3号)かどうかを判断するものであり,原判決の証拠の評価,それに基づく事実認定が論理則,経験則等に照らし不合理といえるかどうかの観点から行うべきである。そして,第1審,原審が被害者の供述を基に犯罪事実を認定している場合には,その供述の信用性を肯定した判断が,他の証拠やそれにより認められる客観的事実との整合性等,被害者の供述に関連する諸事情を適切に考察してされた合理的なものといえるかどうかがまず審査されることになる。
 一般に,被害者の供述は,それがいわゆる狂言でない限り,被害体験に基づくものとして迫真性を有することが多いが,そのことから,常に,被害者の供述であるというだけで信用できるという先入観を持ったり,他方,被告人の弁解は,嫌疑を晴らしたいという心情からされるため,一般には疑わしいという先入観を持つことは,信用性の判断を誤るおそれがあり,この点も供述の信用性の評価に際しての留意事項であろう。
(2) ところで,刑事裁判では,第1審の審理において,直接主義の原則が採られ,その点からも,供述の信用性については,証人を直接に調べ,その際の証言態度等を見ている第1審の判断は重要で,基本的には尊重されるべきであり,控訴審もこの点については事後審としての立場からのチェックにとどまるべきものである。ましてや,上告審は,原則的に法律審であり,なおさらである。しかしながら,本件は,原審が事後審であることは了解しながらも被害者を再度証人尋問していることからもうかがわれるように,被害者の供述には不自然な点が多く,その信用性が大いに問題になるところである。それにもかかわらず,第1審はその供述の信用性を全面的に肯定し,これを基に強姦の犯罪事実を認め,原審も結局これを維持しているので,当審としては,上記のとおり,その認定,判断が当該供述の信用性に関する上記の諸事情を適切に考察した上でされた納得のいくものであるのか否か,すなわち,経験則等にそぐわない不合理な点がないかどうかを改めて吟味する必要がある。そして,そこに不合理な点が認められるのであれば,犯罪事実の証明については,刑事裁判の「疑わしきは被告人の利益に」という大原則に立ち返って,証明が十分でないとされることになる。
(3) いうまでもなく,刑事裁判の使命は,まず,証拠の証明力等を的確に評価し,これに基づき適正な事実認定を行うことであり,証拠等を評価した結果,犯罪事実を認定するのに不十分な場合には当然に無罪の判決をすべきである。その意味で,裁判官は,訴追者側の提出した証拠が有罪認定に十分なものか否かといった観点から,公正かつ冷静に証拠の吟味をすべきであって,社会的,一般的な経験則や論理則を用いる範囲を超えて,自己の独自の知見を働かせて,不十分,不完全な証拠を無理に分析し,つなぎ合わせ,推理や憶測を駆使してその不足分を補い,不合理な部分を繕うなどして証明力を自らが補完して,犯罪の成立を肯定する方向で犯罪事実の認定を行うべきものでないことは当然である。この点は,異論のないところであろうが,我々として,常に自戒する必要があるところであろう。
2 本件における被害者の供述の位置付けとその信用性について
(1) 本件は,強姦の成立を被告人が争っている事件であり,被告人が被害者に対して抗拒し難い程度の暴行脅迫を行ったのか否か,その結果姦淫がされたのか否かが争われている。その点でいわゆる全面否認の事件である。そして,本件では,犯罪構成要件事実の存在を裏付ける客観的で決定的な証拠は存在しない。そこで,被害者の供述の信用性が最大,唯一の決め手になるのであり,信用性の吟味は慎重の上にも慎重にされなければならない。
(2) 供述の信用性が大きな争点となる事件において,多くの場合,信用性の吟味に際しては,供述内容に一貫性があるか,反対尋問にも揺らいでいないか,証言態度が真摯なものであるか,内容に迫真性があるか,虚偽の供述をする合理的な動機があるか等が判断の要素となると指摘されている。これらの点は,当然,重要な判断要素であり,その吟味が有用であることは疑う余地はない。これは,証人尋問を直接行った第1審での判断が基本的に尊重されるべきであるとされるゆえんでもある。
 しかしながら,これらは,供述者の証言態度等についてのものであるから,常に的確な判断ができるかは,刑事裁判のみならず,民事裁判においてもしばしば問題になるところであり,供述態度が真摯で供述内容に迫真性を有し,いかにも信用性が十分にありそうに見えても,書証等の客観的証拠や事実と照らして,そうでないことに気付かされることもあるのであって,慎重で冷静な検討が常に求められる事柄である。特に,本件のような,客観的で決定的な証拠が存在しない場合には,上記の観点から信用性を肯定し一気に有罪認定することには,常に危険性が伴うことに留意する必要がある。
(3) 本件においては,以下に詳述するように,証拠によって認められる様々な周辺の事実や本件犯行が行われたとされる現場の状況といった客観的に明らかであると思われる事実と被害者の供述内容が符合し矛盾がないのか,そこに疑問を差し挟む余地はないか,どの程度のどのような内容の疑問やそごが生じており,それを考慮した上でもなお,供述の信用性を認めることができるか,信用性を認めるとしても,どの程度の,あるいはどの部分について信用性を認めることができるか,等を慎重に,丁寧に,予断を挟まずに吟味する姿勢が求められるところである(例えば,最高裁平成19年(あ)第1785号同21年4月14日第三小法廷判決・刑集63巻4号331頁の那須裁判官の補足意見がこの点を指摘している。)。そして,当審においても,以上のような観点から,その信用性を認めそれに基づき犯罪事実を認定することが経験則等の観点からみて,自由心証主義の限界を逸脱しているといえるか否かを検討していくことになる。
 以上の点をふまえて,以下,Aの供述の信用性等について検討する。
3 強姦の構成要件事実としての被害者の抗拒を著しく困難にする程度の暴行・脅迫の存否について
(1) この点の犯罪事実としては,平成18年12月27日午後7時10分頃,千葉市中央区の京成電鉄千葉中央駅前近くの歩道において,Aは,被告人から「ついてこないと殺すぞ。」と語気鋭くいわれたという脅迫行為があり,その後,コートの袖をつかんで引っ張られるという暴行がされ,さらに,同日午後7時25分頃,本件現場で,被告人から壁に押しつけられ,その左腕でAの右脚を持ち上げるといった暴行を受けたとしている。
(2) ところで,被告人とAとが出会った際の状況については,千葉中央駅前近くの歩道で,被告人が歩いていたAを見掛け,近くにカラオケ店が所在しているかを尋ね,待ち合わせしていた女性が来ないので困っている等の話し掛けをし,Aは,それにそれなりに応答していたのである。ところが,突然「ついてこないと殺すぞ。」と言われ,Aは,怖くて頭が真っ白になって抵抗できなくなったと供述している。しかし,被告人は,その際,殴る蹴る等の暴行はしておらず,刃物を突き付けるなどの行為もしていない。もちろん,強姦の場合,常にこのような強烈な有形力の行使がされるとは限らず,外形上さほどの有形力の行使が行われない場合であっても,被害女性が相手の言動により強い恐怖心を抱き抵抗できなくなったり,困惑し冷静な判断や避難行動を取れなくなるということは一般にあり得るところであり,例えば,相手が暴力団の組員であることを示し,抵抗すれば害悪を及ぼす等を小声でほのめかす等でも,抵抗し難い心理状態になることがあろうし,見ず知らずの男性から,語気強く脅迫的な言辞を発せられただけでも,その際の状況等から恐怖心に支配されるということもあり得よう。この点は,強姦罪の審理に当たり留意すべき点であって,一般的に言えば,相手と被害者とのそれまでの関係,被害者の置かれた立場,過去の暴行等により被害者がいわゆるトラウマ状態になっていたか否か,被害者の精神的肉体的な特性,相手の風貌や一連の言動の内容,その場の状況等を総合して考察すべきであり,その際に,被害者が女性である場合にはその女性の心理状態についての十分な理解が必要かつ前提となるところでもあろう。
(3) 本件も,このような観点から見ることになるが,次のような状況にあったことが認められる。まず,被告人が声を掛けた場所は,駅前のロータリー近くで,商店,飲食店等雑居ビルが密集する繁華街の歩道であり,この時間帯であれば,相当の人通りがあったものと予想される場所であり(第1審では,Aも,周りに人がちらほらいたと供述している。),そこから近くには,交番もあり,駅前ホテルの駐車場の係員も居て,Aは,そのことを知っていながら,これまで面識のなかった被告人の言葉を受けて,叫んだり,助けを呼ぶこともなく,逃げ出したりもしていない。Aが,このような状況の下で,それだけの言葉で助けを求められなくなるほどの恐怖心を抱いたということには疑問を抱かざるを得ない。Aは,18歳で若年ではあるが,当時,キャバレークラブで勤務しており,接客業務の経験もあって,それなりの社会経験を有しており,若年であることを過度に重視すべきではない。そもそも,被告人がAとの日常的な会話をしていたにもかかわらず,前触れもなく突然「ついてこないと殺すぞ。」と言い出したという点は,余りにも唐突の感じを免れない(被告人が,このような状況の下で,Aをたちどころに畏怖させることができると考えてこのような脅迫的な言動にいきなり出るということも,通常は考え難く,また,いわゆる「ダメもと」での言動とみても,不自然さは否定できない。)。さらに,そこから約80m離れた本件ビルまで,2人で歩いているところ,被告人は,最初にAの袖を引っ張ったことはあったが,その後は,本件ビルの階段のところまで終始Aの前を歩いており,Aは被告人の後ろを歩いているのであって,無理矢理Aを連れて行くような様子には見えず,被告人はまるでAが助けを呼んで逃げ出したりするようなことは念頭にないように見える。そもそも,被告人の供述によれば,同人は,JR千葉駅構内で納品の仕事を終えた後に,駅の駐車場にトラックを駐車したまま,帰社するまでの間の二,三十分程度の時間的余裕しかなかったのであり(被告人は,納品業者が頻繁に駐車する場所なので,仕事を終えたらすぐ車を出さなければならないが,二,三十分程度であれば,食事をしていたことにすれば弁解がとおるので,その時間を利用した旨を供述している。),この間に,合意による手淫なら別であるが,強姦といった大きな犯行までやり遂げるには時間が余りにも足りない気がする。
(4) さらに,本件ビルの地下と1,2階は食堂・店舗となっており,いわゆる赤提灯も多数飾られ,店の看板も設置され,人の出入りが予想される場所である。2人は,その外階段を登り,一旦屋上に出たが(この点は,Aは否定しているが,当日の実況見分の際,Aが自ら屋上で指示をしている。第1審でこの点を指摘されると,よく覚えていないと供述しているが,屋上に出たことは明らかである。),その後,引き返して,本件現場に戻っているところ,そこは踊り場となっており,蛍光灯がついていて人の顔が識別できるほど比較的明るくなっている場所である(なお,被告人は,屋上から本件現場に戻ったのは,屋上は暗く,明るい方がAが安心すると思って戻ったと供述している。)。屋上は寒かったとは推測されるが,暗い屋上を避け,このような人が通る階段の明るい踊り場をわざわざ選んだという被告人の行動は,強姦しようとしている者の行動にはそぐわないところがある。
 また,Aが被告人と踊り場に居た際,階段下から制服姿の警備員が近づいてきたが,その足音を聞いた被告人は,直ちに逃げようとはせず,上着で下半身の露出部分を隠し,「この後,どこへ行きたい。」などと話し掛け,交際中の男女を装ってその場をやり過ごす対応をしており,これは,強姦最中の犯人の行為とはとても思えない。
(5) さらに,この警備員は,被告人やAから1m50cmのすぐ後ろを通ったが,Aは,警備員を涙目で見たというのみで,声を出すなどして積極的に助けを求める行動に出ていない。このようなビルの警備を担当する者に対してさえかすかな声も出せないほどの恐怖心にかられていたことを裏付けるような被告人の言動や本件現場の特別な状況等は全くうかがえない。
(6) 以上のような状況によれば,Aにおいて,被告人の上記の言葉により恐怖心で頭の中が真っ白になり,抗拒が著しく困難になるような状態になったとする供述は,女性の心理状態等を考慮しても,経験則からして容易には納得できないものであり,にわかに信用性を認めることはできず,これを基に,被告人が強姦のための暴行・脅迫を行ったとする認定は,自由心証主義を前提にしても容易に是認することができないところである。
(7) 他方,この点についての被告人の弁解は,「配達の仕事が終わり,配送用のトラックを駐車させたまま京成電鉄千葉中央駅の近くを歩いていると,好みのタイプであったAに出会った。カラオケの場所を聞くなどして話し掛けながら,Aとの会話から脈があるかも知れないと思い,3万円の現金をチラシに挟んで示し,これを対価に手淫してほしいと頼んだところ,了解したので,合意の上で,一緒に本件ビルの北側外階段屋上踊り場に行った。Aのコートのポケットにチラシを入れたが,それは3万円を挟んでいないダミーのチラシだった。被告人が,Aに下着を見せてほしいと頼むと,Aは,自分でスカートをめくって下着を見せてくれた。被告人がAに『やってくれる?』というと,Aは,右手で手淫行為をし,被告人は,Aの右手の掌に射精した。その後,被告人は,先に階段を降り,結局金銭の支払をしなかった。」というものであり,大筋において,上記のような当時の状況を無理なく説明することができ,客観的事実とも矛盾するところはなく,これをむげに排斥することはできない。
4 姦淫の有無について
(1) Aは,被告人に無理矢理姦淫されたとし,当初の警察での取調べにおいては,挿入されていた時間は約10分間であると供述し,その後,検察官の取調べにおいては,10分間が長すぎると感じたためか,三,四分間と供述を変えている。しかし,この供述以外には,このような姦淫を裏付ける証拠はなく,通常あってもよい証拠もない。すなわち,本件当日深夜に採取されたAの膣液からは姦淫の客観的証拠になり得る人精液の混在は認められず,無理矢理姦淫されたにしては膣に傷も認められていない。もちろん,本件は,射精は膣外でされたのであり,人精液の混在が認められないこと等が姦淫のなかったことを直接裏付けるものではないが,このような姦淫の裏付けとなるはずの客観的な証拠が全く存在していない以上,それでも姦淫を認めるためには,信用性を有する他の十分な証拠の存在が強く要請されるところである。
(2) それどころか,次のような事実も指摘できる。Aの供述によれば,20cm余りの身長差のある被告人に,立ったまま右脚を被告人の左手で持ち上げられたまま姦淫されたということになるが,これは,誠に不安定でわずかな抵抗をしさえすれば挿入を阻止できる体勢であり,このような体勢で無理矢理姦淫することは,相当に困難である(なお,Aの供述によればその間,被告人の右手は,Aの口を塞いだり胸を触っていたというのであり,Aの体を両手で押さえ付けていたわけではなく,被告人は極めて不安定な体勢で押さえ続けたことになる。)。
(3) 更に重要な事実としては,Aは,パンティストッキングを無理矢理脱がされて破れたので,その後コンビニエンスストアのゴミ箱に捨てたという供述をし(第1審でも,Aは,間違いなくそこに捨てましたと供述している。),そのゴミ箱も特定している。これは,強姦の決め手になり得るもので,極めて重要な点であるが,破れたパンティストッキングは,直後の捜査によっても発見されていない(なお,これを初動捜査のミスがあった可能性があるなどとして重視しないことは,ミスの不利益を被告人に負わせることになり,許されないところであろう。)。
(4) さらに,Aは,捜査段階では,その前にコンビニエンスストアで新たにパンティストッキングのみを買ったと供述しているが,起訴後で事件から2年近くなってからコンビニエンスストアに対する照会がされ,コンビニエンスストアのレジの販売記録を取り寄せた結果,Aの供述する時間に,サイズの合うパンティストッキングのみが購入された事実は見当たらず,サイズの合うパンティストッキングの購入は,ペットボトルと一緒に購入された記録があるのみであった。そうすると,今度は,第1審では,Aは,何かを一緒に購入したかもしれないとして,少しトーンダウンした証言をし,さらに,原審では,パンティストッキングのみでなく,「ペットボトルの飲物も一緒に購入したかも知れない」,「飲物と一緒に買った記憶がある」と,レジの記録に沿う供述に改めており,客観的な事実に合わない点が出てくると微妙に供述を変遷させている。いずれにしろ,破れたパンティストッキングを捨てたとするAの供述は客観的な事実にそぐわず,その事実の存在自体が極めて疑わしいところである。
(5) 以上のように,姦淫の裏付けとなる客観的で決定的な証拠はなく,姦淫行為に関する一連のAの供述は,その内容からして容易には信用し難く,不自然な変遷も見られ,原審がこれを信用できるとしたことは,その点からも経験則上疑義があり,これを基に姦淫の事実を認めたことは,自由心証主義の枠を超えるものである。
5 Aが勤務先のキャバレークラブに戻ってきた時の様子について
 Aの供述のほか,従業員や経営者の証言によれば,Aは,事件後勤務先のキャバレークラブに戻り,震えて泣いていた様子であったことが認められる。
 Aの泣いていた理由を従業員から問われ,Aは,「やられた」と答えたと供述している(検察官による取調べの際は「強姦された」という供述であるが,第1審では,どういう言葉で言ったかと繰り返し聞かれ,「やられたとか,最初,そういったようなことを多分言ったと思います。」と供述している。なお,「やられた」という表現は,強姦された場合にも使われるであろうが,当時の状況からして,強姦されたということだけでなく,だまされた,嫌なことをさせられた,等を表現する場合にも使われるものである。)が,これだけで,この場のAの態度,応答が強姦の被害を表すものと断定することはできない。すなわち,Aのこの時の様子は,Aが精神的に辛く緊張した場面を体験したことをうかがわせるが,被告人の弁解を前提にすれば,Aは,合意の上とはいえ,嫌々手淫を頼まれ,その際,警備員がすぐ後ろを通り掛かった際,手淫を隠すため交際中の男女の振りをすることに協力させられ,その直後,右掌だけでなく,バッグやコートの右袖口等にまで精液を掛けられ,更には,3万円が挟まれているはずのチラシをポケットに入れられたが,その後お金が入っていないことが分かった等,予期せぬ悔しい出来事を次々と体験し,ショックを受けたのであるから,Aの上記の様子は,そのためであることも推察され得るところであり,少なくともその疑いをぬぐい去ることはできず,これを強姦の被害の現れと決め付けることはできない。
6 被告人の供述の評価
(1) 原判決は,被告人の供述は第1審で不自然であると指摘された点についてその後変遷しており,しかも,修正した理由について合理的な説明がうかがわれず,その信憑性に強い疑念を抱かざるを得ないとしている。この点で問題になるのは次の3点である。
 まず,捜査段階においては,千葉へ来たのは風俗店に行くため自宅から来たと述べているが,その後,JR千葉駅構内で納品の仕事を終えた後に京成電鉄千葉中央駅に来たと供述を変えている。これについては,家族に知られたくないという思いや,仕事の受注先に対し,配送先の駐車場にトラックを駐車したまま遊びに出掛けたことが知られると困るので当初は嘘をついた等と弁解している。
 また,被告人が射精した時期が,警備員が通り過ぎる前か後かについて,当初は前と供述していたのは,警備員が近くに来たからといって手淫を合意しながら出さずに帰るつもりだったのか等と取調警察官から言われたため虚偽の事実を述べたに過ぎないと弁解している。
 さらに,被告人が本件ビルから立ち去る際に,階段のところに現金を置いて帰ったと述べていたのは,取調警察官から,現金を支払わないで立ち去ったことについて,詐欺師やペテン師などとなじられたので虚偽の事実を述べたと弁解している。
(2) このように,被告人は,捜査段階では捜査官から非難や疑問をぶつけられるとそれに対応して供述を変え,第1審で不自然であると指摘されると,相応に供述を変えるなどしており,その意味で,その供述態度は,姑息で,場当たり的であり,真摯なものとは到底言い難いところである。
 しかしながら,これらの弁解は,犯罪の成立に直接関係するものでなかったり,その変遷も,例えば手淫の対価として現金を渡したかどうか等の経緯についてのもので,現金の支払を対価として手淫してもらったという弁解の骨格を変更するものではなく,犯罪の成立を基礎付ける事実そのものについて否認に転じたというものではない。しかも,変更後の内容は,いずれも客観的な事実ないし当時の状況と矛盾するものではなく,むしろ,お金を払って手淫してもらうことを頼んで,膣外に射精し,その後ごまかして金を払わないで立ち去ったという被告人の弁解の骨格となる部分とよく整合するものであって,また,供述を変えた理由もそれなりの説明になっており,供述が変わっていることのみを理由に,むげにその信用性を否定することはできないというべきである。
(3) 原判決は,Aの供述の信用性については,その証言態度等は「極めて真摯かつ誠実なものであり」とし,その内容についても,犯行状況から見て合理的なものである点を逐一説示している。その一方で,被告人の供述については,多くの問題点を指摘し,不自然である旨を繰り返している。例えば,「被告人の射精した精液が本件女性の着用していたコートの右手袖口部分に付着しているが,仮に被告人の弁解どおり,同意に基づき本件女性が手淫行為に応じたのであれば,このように着衣に掛かることのないようにするはずである。・・・コートの右袖部分に精液が付着している事実は,それだけをみても,同女の意思に反する出来事と考えられ,・・・本件女性の被害状況に関する上記証言と平仄が合うものといえる。」と説示している(原判決9頁)。
 確かに,Aの供述を前提にすれば,このような判断・説示もあり得るところであろう。しかしながら,被告人の弁解によれば,被告人はAに気付かれずに3万円を抜いたチラシだけをAのコートのポケットに押し込んでおり,立ち去る際には,Aがポケットに手を入れて確認することによりそのことが発覚するのをおそれて,そのような確認行為をすぐにはさせないために,あえて,右掌に精液を掛けたのであり,コートの右袖口等にも精液が掛かるように射精したとしても同様にAの気をそちらに向かわせようとしたものといえるのであって,このような被告人の弁解の内容を十分吟味すれば,「着衣に掛かることはない」と断定すべきではない。むしろ,「あえて着衣に掛かるようにして,ポケットの中身をすぐに調べないようにした」という趣旨の弁解であるから,着衣に掛かる(ないし,掛ける)ことは当然であるといえるのである。
 さらに,原判決は,被告人の本件女性と出会った際の両名のやり取りを詳細に速記録1頁余りにわたりよどみなく述べていることを指摘し,このような供述内容や態度は,創作であることを疑わせるに足りるほど,作為的で不自然なものといわざるを得ないとしている(原判決23,24頁)。しかし,被告人が供述した本件での両名の出会いの際のやり取りは,後記の竹ノ塚駅付近で他の女性に報酬を条件に手淫を依頼した事件における出会いの際の会話とほぼ同様の内容のものであることが認められる。そうすると,これは,多数回にわたり手淫行為の依頼をしてきた被告人にとっての常套手段ともいうべきもので,いつも同じような話し掛けをして誘っており,そのためよどみなく供述することができたとも推察されるところであり(いずれにしろ,別の事件の際のやり取りや架空の話を本件でのやり取りとして創作したものと決め付けることはできない。),この点を適切に考察すれば,被告人がよどみなく詳細に述べたことは,「作為的で不自然といわざるを得ない」という断定的な評価にはならないというべきである(なお,逐一指摘はしないが,原判決には,ほかにも,このようなAの供述の信用性を全面的に肯定し,それを前提として被告人の供述の疑問点を強く指摘する同様の説示が,多く見られるところである。)。
 被告人の供述の信用性は,その弁解,それと平仄の合う当時の状況等を十分に考察してはじめて判断できるものであり,Aの供述のみを前提に判断されるべきではないであろう。
(4) 以上のとおり,被告人の供述は,本件における客観的な事実や当時の状況との整合性が十分認められ,他方,Aの供述にはこれらと整合しない多くの疑問点があり,全面的に信用性を認めた原判断は,経験則に反するものというべきである。
 なお,被告人は,以前,東京都足立区の竹ノ塚駅付近で,同じような手口で女性に報酬を条件に手淫してもらい,報酬を払わずに逃げて事情聴取され,状況を説明したのち解放されたという事件があり(多数意見第2の2(5)),また,被告人の携帯電話に収められている写真には,女性に手淫等をしてもらった様子を撮影したものが多数存在しており,100件以上も同様の行為をしてきたとも述べている。被告人は,その方向の嗜好を強く有する者と推察され,そのことからしても,本件も,強姦ではなくこれらと同様の行為だとする弁解も,むげに排斥することはできないところである。
7 結論
 Aの供述には不自然な点があることは原審も認めているところであるが,上記の検討によって,その信用性は大きく揺らいでおり,上記のような諸事情があるにもかかわらず,これについて十分に考察することなく,証言内容が一貫している等の理由でその信用性を肯定し,決め手となる証拠も提出されていないのに,被告人の弁解を排斥して強姦の犯罪事実を認定することは,「合理的な疑いを超えた証明」の点から大いに問題があるといわなければならない。
 裁判官古田佑紀の反対意見は,次のとおりである。
 私は,事実認定に関する当審の審査は,原判決の認定が論理則,経験則に照らして不合理といえるかどうかという観点からなされるべきであるという点については異論はないが,本件において原判断の証拠評価及びこれに基づく認定に経験則に照らして不合理はなく,上告を棄却すべきものと考える。以下,その理由を述べる。
1 多数意見は,脅迫行為等に関するAの供述が状況等から見て不自然であるとする。
 しかしながら,通行人が相当数ある路上で脅迫行為,時には暴行も行われることはまれではない。また,性犯罪においては,被害者(多くの場合女性)が,威圧的な言動により萎縮して抵抗できなくなる場合が少なくないのが実態であって,警戒していない相手が,態度を豹変させて,粗暴な威圧的言動を示すと,恐怖を感じ,パニックに陥るのはよくあることである。女性を萎縮させ,心理的に抵抗ができない状態に追い込むには,多くの場合,粗暴な威圧的態度を示すのみで十分であることは,つとに指摘されているところである。「殺すぞ」という明白な危害の告知を受けた場合に抵抗できない状態になることに何の不自然もない。客観的,事後的には,助けを求め,あるいは逃げることが容易であると認められる状況や機会がありながら,積極的にそのような行動に出ることができず,抵抗しないまま犯人の意のままになっていることもしばしば見られる。警察官がすぐ近くにいても助けを求めることができないことも珍しくないのであって,交番が近くにあるということにさして意味はない。被害者としては,周囲の者が怪しんで声を掛けるなどしてくれ,犯人が断念することを願うにとどまることも多い。通行人がいる路上であるから脅迫行為が行われることは通常考えられないとか,容易に逃げたり助けを求めることができる状況があるのに被害者がこれらの行動に出ないのは不自然である,あるいは抵抗を試みていないのは不自然であるというような考えは,一見常識的には見えるものの,この種犯罪の実態から乖離したものであって,現実の犯罪からはそのような経験則や原則が導かれるものではない。このようなことは,性犯罪に関する研究等においてもしばしば指摘されているところであり,多くの性犯罪を取り扱う職務に従事する者の共通の認識となっているといえる。
 本件の状況からも,Aが脅迫されたという路上は,ホテルの入口の前付近であるが,すぐ側は駐車場であり,通行人は若干いた程度と認められ,脅迫するために大声を出す必要はないのであるから,通行人等に気が付かれないようにAを脅迫することに困難があったとは考えられないし,被告人は袖を引っ張るなどしてAに威圧を加えながら本件ビルに至ったというのであって,Aの行動が不自然とはいえない(なお,本件のように,路上で行きずりの女性に働き掛けるような場合,やるだけやってみるという域を超えて,あくまで執拗に目的を実現しようとすることは,必ずしも多くないものと思われるし,相手方も,単に恐怖を感じたのみにとどまった場合は,被害申告をすることはほぼないのが実際であろう。)。
 なお,本件脅迫は,Aが話を打ち切って立ち去ろうとしたことを受けて行われたというのであるから,唐突というより態度を豹変させたということが相当であるし,Aが当時キャバレークラブに勤務しており,接客業務の経験があるとしても,そのことが路上で見知らぬ男から「殺すぞ」と脅迫された場合に抱く恐怖感に影響するような事情とはいえない。
 また,この種の犯罪に関しては,通行人等も,よほどの異常を感じない限り,男女間の問題と考えて見ないふりをすることが多い。本件においては,警備員が目撃しているところ,夜7時過ぎ頃マンションの居住者と思われない男女が人目につきにくい屋上に出る階段の踊り場に入り込んでいたのであるから,警備員としては注意するのが適当であったとはいえようが,プライバシーに介入することとなることを恐れて放置することは十分あり得ることである。
 被告人は,自認するところによっても,本件まで,約5年間,多数回にわたり,見知らぬ女性に対し,金銭を提供し,あるいは金銭を提供することを装って,階段踊り場や駐車場等で手淫等の性的行為をさせることを繰り返し,時には姦淫に及んでいたというのであって,その中には他人に見られたことや必ずしも被告人の意のままにならない女性もいたであろうことは十分想定できるところ,上記のような点も含めて,他人の反応,女性を自己の意に従わせる手段や女性がどのような行動をとるかなどを熟知していて不思議はない。
2 多数意見は,Aが述べる姦淫の姿勢は不安定なもので,わずかの抵抗で拒否することができるものであり,また身長差を考えればそのような姿勢で姦淫をすることは容易でないという。
 しかしながら,抵抗しないことが不自然とは言えないことは先に述べたとおりであるし,Aが述べる姦淫の方法,姿勢は,想像により容易に述べられるようなものではない一方,いわゆる立位のそれとして代表的なものの一つであり,それ自体として不自然なものではない。また,被告人とAの身長差は約22cm前後であるが,問題は股下の位置の差であるところ,日本人の平均的な身長対股下長の比率からすると,その差は,パンプスが左右とも脱げていたとしても,約10cmと推認され,姦淫行為の実行に支障があるようなものではないし,Aに,壁にもたれかかる姿勢をとらせていたというのであって,被告人の姿勢が特別不安定になるようなものでもない。
 なお,強姦は必ずしも長時間を掛けて行うものではないし,場所についても,12月27日の午後7時過ぎという時間からして,屋上は寒気が強かったと考えられる一方,屋上につながる階段踊り場は滅多に人が来ないところであり,強姦は薄暗いところで行われるのが通常といえるものでもなく,不自然ではない。階段踊り場はしばしば性犯罪に利用されているという実態もある。警備員の足音を聞いても逃げようとせず,交際中の男女を装ってやり過ごすのは,逃げ出せばかえって怪しまれることは明らかであって,むしろ常套的な手段である。
3 膣内から精液が検出されていないという点は,膣内で射精していないと認められるので,むしろ当然のことである。そのような場合でもなお精液が検出されることがあるのは事実であるが,精液等が検出されないことが不自然であるという法医学上の知見は承知しない。また,外傷が認められない点も,Aは被告人にされるがままになっていたというのであるから,体表に外傷が生じる契機はなく,膣内についても,顕著な傷害が生じる可能性は考えられず,微細な表皮剥脱も含めて何らかの軽微な傷害が生じるかどうかは,女性の体調,年齢等によることが大きいと思われる。これらの点は,結局,Aの供述以外には姦淫行為があったことを示す客観的な証拠はないというにとどまり,それ自体不自然なことではないから,Aの供述が不自然であるという理由とはならないし,事実認定に疑問を生じさせるようなものでもない。
4 Aが捨てたと供述するパンティストッキングが発見されていないこと,Aが捜査段階においてはパンティストッキング以外のものは買っていないと述べ,第1審においては飲物を併せて買ったか記憶していないが何か買ったかもしれないと述べていたところ,原審においてその旨の記憶があると述べているのは事実である。前者については発見されなかった理由は明らかでないが,ゴミ箱の捜査がされたのは時間が相当経過してからと思われるところ,それまでの間のゴミ箱の処理の状況等も明らかではないし,実際に捨ててもいないのに特定のゴミ箱に捨てたという,裏付けを取れば判明するおそれが高い虚偽の事実をAが作出する理由は見出し難い。後者については,多数意見は供述の変遷であるとするが,強い精神的ショックを受けた場合,強く意識したものでない行動などについて記憶が欠落していることはしばしば見受けられ,そのような場合,他の証拠から,明瞭な記憶はないものの実際はそのようなことがあったのかもしれないと考えるようになることは自然なことである。Aの供述は,飲物を買ったことの確実な記憶があるとしているわけではなく,「確実なことは分からないが,そのようなことがあった気もするようになった。」というのがその趣旨と認められる。Aは,自己の記憶について率直に供述しているものと認められ,上記の点をもって供述の信用性に疑義を生じさせるような変遷とすることは当を得たものではない。この点に関し,更に敷えんすれば,Aにとってパンティストッキングを購入したことは破れたストッキングを取り替えるという明確な意識を持った行動で記憶に残るものであるが,その際飲物を買うことは平静さを取り戻そうとする半ば反射的な行動であった可能性が多分にあり,それについて記憶が欠落することは十分に考えられる上,本件においては,警備員に抗議に行くという事態になり,Aもこれに同行したのであるから,その騒ぎのため忘れるに至ったとしても不自然ではない。また,原判断は,Aの供述のみで安易に判断したものではなく,Aが帰店した際にコンビニのビニール袋と思われるものを持っており,コンビニで買物をしたことが推認できることを踏まえたものである。
5 多数意見は,被告人が金銭を提供するとして女性に性的行為をさせていた事実が認められ,携帯電話に保存されたそれに沿うような写真もあるし,現に被告人検挙の端緒となった本件から約1年半後の竹の塚における件(多数意見第2の2(5))において,被告人の弁解と同一の方法により,女性に手淫をさせた事実もあり,その弁解を一概に否定できないとする。
 確かに,少なくとも竹の塚の件の当時,被告人は本件で弁解するような手口をしばしば用いていたようにうかがえる。しかしながら,本件についての被告人の供述を見ると,捜査段階では3万円をおいて立ち去ったと述べ,第1審ではAが自分について下りてくれば金を渡すつもりだったが下りてこなかったと弁解していたところ,この弁解が排斥されると,原審において,空の包みを渡して立ち去った旨の弁解をするに至ったものである。第1審において上記弁解をしなかった理由について,「そのような方法で女性を騙したのは詐欺になると思った。そのことを言わなくても,路上で脅したという被害者の供述は信用されず,無罪になると信じていた」旨述べる。しかし,関係証拠によれば,被告人は,竹の塚の件において,金銭が入っている包みと空の包みを所持しているのを発見され,金の入っている包みを見せて手淫させたが実際に渡した包みは空であったことを供述するに至ったところ,金銭を提供するといって誘った事案と認められたことから事件にならないと判断されたものであって,本件で逮捕された当時,上記のような行為を供述してもそれが特に追及されることはなく,むしろ有利な弁解となり得ることは分かっていたと認められる。被告人は,竹の塚の件に関し,女性が手淫をしている動画があったことが事件とされなかった主な理由であるかのように供述するが,関係証拠とそごがあり,虚偽と言わざるを得ない。被害者の話が信用されることはないと思っていたという点は,そのように思う根拠が不明である。原審における弁解は,携帯電話への着信を装うことも含め,竹の塚の件の際の弁解と酷似しており,第1審における弁解がいれられなかったことから,事件とされなかった竹の塚の件を利用した疑いを否定できない。金銭の提供に関する供述は合意による行為と認められるかどうかに関し重要なものである。金銭の提供を申し出て誘ったという限度では被告人の供述は一貫しているが,その具体的態様については,上記のとおり,金銭の提供の有無を含め,大きく変遷しているのである。抽象的には趣旨が一貫しており,かつ被告人の立場における供述であることを考慮しても,その述べる具体的態様がこれほどに大きく変遷している場合,客観的に明白な裏付けがあるなどの事情がなければ信用性を認めるのは困難である。なお,女性に手淫等をさせている写真等があるとしても,すべてが金銭の提供を約束してさせていたものということはできない。
 Aに手淫をさせたという状況についても,被告人は,床に出すので携帯で撮影させてほしいといって手淫させ,実際はコートのポケットに入れた包みが空であることが直ちに確認されないようにするため,Aの右手の手のひらに射精し,撮影したと弁解するが,手淫をしている手である右手の手のひらで精液を受けさせるように射精するということが可能か疑問である上,Aは,被告人が床に射精するものと考え,手のひらに射精されることを予期していなかったことになるから,反射的に手を離すのが自然と思われ,精液を受けさせた右手を撮影するということも想定し難い。また,手のひらのみならず,コートの袖口にも掛かったのであるから,被告人が述べるような経緯であれば,Aは,抗議や苦情を言うのが自然であるところ,そのような状況は被告人の供述からも現れない。
 その他にも,被告人の供述は,原審が詳細に指摘するように,重要な点の変遷が随所に見られる。総じて,被告人は自己に不利益と考える事実は当初は述べようとせず,状況を見ながら弁解を転々と変更している様子が顕著にうかがえ,また,不自然な点が多々あり,このような被告人の供述に信をおくことはできない。被告人の原審供述が,当時の状況や客観的事実と積極的には矛盾しないとしても,それは,被告人が嘘であった旨を自認する様々な供述についても同様にいえることである。被告人の供述に積極的,具体的に信用性を認めるべき事情はなく,その弁解が客観的状況によく整合するというような評価には無理があると思われる。
 一方,Aは,当時店で使用するおつまみなどを買いに行く途中であり,被告人の主張するような誘いに応じるとか,見せ金をして誘うような手の込んだことを被告人がするようなゆとりのある状況であったとは考えにくい。また,Aが店に戻った際の様子は,震えて泣いており,他の従業員が明らかに強い異常を感じるものであったことが認められるし,本件から約1年半を経過して当時の勤務先を辞めているなどの変化があっても強い処罰感情を維持している。そのような事情は,騙されて結果的に不本意な行為をさせられたという怒りよりも,意に反する屈辱的な行為を強制された反応として自然なものである。
6 原判断は,多数意見が指摘するような問題を踏まえて,第1審及び原審における2回にわたるAの証人調べや数回にわたる被告人質問を含む事実調べを行って慎重に判断したものであって,その内容も経験則に照らし不合理な点はない。社会的,一般的な経験則を用いる範囲を越えて,妥当する限度や実証性が明らかでない知見を働かせ,不完全な証拠を無理に分析し,憶測や推理を働かせて不合理な部分を繕うようなことをすべきでないということはそのとおりである。このことは有罪,無罪のいずれの方向についても変わるところはなく,その観点から見ても,原判断は,十分な具体的根拠に基づく合理的なものである。
 本件について当審が介入すべき理由は認められない。
検察官飯塚和夫 公判出席
(裁判長裁判官 千葉勝美 裁判官 古田佑紀 裁判官 竹内行夫 裁判官 須藤正彦)

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