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殺人大阪

最高裁判所第3小法廷判決/平成19年(あ)第80号

主文

 原判決及び第1審判決を破棄する。
 本件を大阪地方裁判所に差し戻す。

理由

 弁護人中道武美の上告趣意のうち,第1点ないし第3点は,憲法37条違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であり,被告人本人の上告趣意は,事実誤認の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。
 しかしながら,所論にかんがみ,職権をもって調査すると,原判決及び第1審判決は,刑訴法411条1号,3号により破棄を免れない。その理由は,以下のとおりである。
1 本件公訴事実及び争点
 本件公訴事実の要旨は,被告人は,(1) 平成14年4月14日午後3時30分ころから同日午後9時40分ころまでの間に,大阪市平野区所在のマンション(以下「本件マンション」という。)の306号室のB(以下「B」という。)方において,その妻C(当時28歳。以下「C」という。)に対し,殺意をもって,同所にあったナイロン製ひもでその頸部を絞め付けるなどし,よって,そのころ,同所において,同女を頸部圧迫により窒息死させて殺害し,(2) (1)記載の日時場所において,B及びC夫婦の長男であるD(当時1歳。以下「D」という。)に対し,殺意をもって,同所浴室の浴槽内の水中にその身体を溺没させるなどし,よって,そのころ,同所において,同児を溺死させて殺害し,(3) 本件マンションに放火しようと考え,同日午後9時40分ころ,本件マンション306号室のB方6畳間において,同所にあった新聞紙,衣類等にライターで火をつけ,その火を同室の壁面,天井等に燃え移らせ,よって,Bらが現に住居として使用する本件マンションのうち上記306号室B方の壁面,天井等を焼損し,もって,同マンションを焼損した,というものである。
 被告人は,Bが子供のころにその実母E(以下「E」という。)と婚姻し,養父としてBを育て,かつては,同居するEと共に,B家族との交流があったが,Bの借金問題,女性問題等をきっかけに,本件事件当時はB家族と必ずしも良好な関係にあったとはいえず,B家族が平成14年2月末に本件マンションに転居した際には,その住所を知らされなかったものである。上記(1)ないし(3)の公訴事実となっている事件は,Bの留守中に発生したもので,火災の消火活動に際してCとDの遺体が発見されたことから発覚し,捜査が進められた結果,同年11月16日に被告人が逮捕され,同年12月7日に上記(1),(2)の各事実が,同月29日に上記(3)の事実が起訴された。
 上記公訴事実につき,検察官は,その指摘する多くの間接事実を総合すれば被告人の犯人性は優に認定できる旨主張し,被告人は,本件事件当日まで,事件現場である本件マンションの場所を知らず,事件当日及びそれ以前を含めて,その敷地内にも立ち入ったことはない,被告人は犯人ではなく無罪である旨主張した。争点は,被告人の犯人性である。
2 第1審判決
 第1審判決は,被告人の犯人性を推認させる幾つかの間接事実が証拠上認定できるとした上,これらの各事実が,相互に関連し合ってその信用性を補強し合い,推認力を高めているとして,結局,被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているとし,ほぼ上記公訴事実と同じ事実を認定し,被告人を無期懲役に処した(検察官の求刑は死刑)。この間接事実からの推認の過程は,以下のようなものである。
(1) 被告人は,本件事件当日である平成14年4月14日,仕事が休みであり,午後2時過ぎころに自宅を出て,自動車に乗って大阪市平野区方面へ向かい,同日午後10時ころまで同区内ないしその周辺で行動していたことが認められるが,さらに,以下のアないしオを併せ考えると,被告人が,同日に現場である本件マンションに赴いたことを認定することができる。
ア 本件マンションの道路側にある西側階段の1階から2階に至る踊り場の灰皿(以下「本件灰皿」という。)内から,本件事件の翌日にたばこの吸い殻72本が採取されたが,その中に被告人が好んで吸っていた銘柄(ラークスーパーライト)の吸い殻が1本(以下「本件吸い殻」という。)あり,これに付着していた唾液中の細胞のDNA型が,被告人の血液のDNA型と一致していること,このDNA型一致の出現頻度は1000万人に2人という極めて低いものであること,本件事件の火災発生後,程なく警察官による現場保存が行われたことなどから,被告人が,本件事件当日あるいはそれまでの間に事件現場である本件マンションに立ち入り,本件灰皿に本件吸い殻を投棄したことが動かし難い事実として認められる。
イ 本件事件当日午後3時40分ころから午後8時ころまでの間,被告人が当時使用していた自動車と同種・同色の自動車が,本件マンションから北方約100mの地点に駐車されていたと認められる。
ウ 被告人自身が,捜査段階において,本件事件当日に自己の運転する自動車を同地点に駐車したことを認めていた。
エ 本件事件当日午後3時過ぎないし午後3時半ころまでの間に,本件マンションから北北東約80mに位置するバッティングセンターにおいて,被告人によく似た人物が目撃されたと認められる。
オ 被告人自身,本件事件当日はBないしB宅を探して平野区内ないしその周辺に自動車で赴いたことを自認しており,これは信用できる。
(2) 他方,動機面についても,以下のアないしウの点などから,被告人は,本件事件当時,背信的な行為をとり続けるBに対して,怒りを募らせる一方,後記のような自分からの誘いを拒絶した上で,Bと行動を共にし,被告人の立場から見ればBに追随するかのような態度を見せていたCに対しても,同様に憤りの気持ちを抱くようになったことが推認できる。そうすると,Cとの間のやり取りや同女のささいな言動など,何らかの事情をきっかけとして,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったということができる。そのような事情を有していた被告人が,本件事件当日,犯行現場に赴いたことは,被告人の犯人性を強く推認させるものである。
ア 平成13年10月1日から同月24日まで,C及びDは,被告人宅で同居生活を送ったが,そのころ,被告人は,Cに対し,恋慕の情を抱いており,性交渉を迫る,抱き付く,キスをするなどの行為に及んだことがあった。
イ しかし,Cは,被告人からの誘いを拒絶し,被告人宅から被告人に告げることなくBの下へ戻った上,Bと行動を共にするようになり,被告人との接触を避けてきた。
ウ 被告人は,Bの養父ないし保証人として,Bの借金への対応に追われていたが,Bは,被告人に協力したり,感謝したりすることをせず,無責任かつ不誠実な態度をとり続けていた。
(3) 被告人は,本件事件当日の夕方,朝から仕事に出ていたEを迎えに行く約束をしていたにもかかわらず,特段の事情がないのにその約束をたがえ,C及びDが死亡した可能性が高い時刻ころに自らの携帯電話の電源を切っており,Eに迎えに行けないことをメールで伝えた後,出火時刻の約20分後に至るまでの間同女に連絡をとっていないなど,著しく不自然な点があるが,これらについては,被告人が犯人であると考えれば,合理的な説明が可能であり,得心し得るものである。
(4) このほか,被告人の本件事件当日の自身の行動に関する供述は,あいまいで漠然としたものであり,不自然な点が散見される上,不合理な変遷もみられ,全体として信用性が乏しいものであって,被告人は,特段の事情がないのに,同日の行動について合理的説明ができていない点がある。また,Cは,生前,在宅時も施錠し,限られた人間が訪れた際にしかドアを開けようとしなかったこと,本件の犯人が2歳にもならないDを殺害しているのは口封じの可能性が高いこと,犯人が現場に放火して徹底的な罪証隠滅工作をしていることなどから,本件犯行は被害者と近しい関係にある者が敢行した可能性が認められる。これらの各事実も,被告人の犯人性を推認させるものである。
(5) 以上の事実を全体として考察すれば,被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているというべきである。
(6) なお,被告人は,本件事件当日に本件マンション敷地内に入って階段を上ったことがある旨認める供述をした被告人の平成14年8月17日付け司法警察員に対する供述調書(乙14)について,警察官から激しい暴行を受けたために内容もよく分からないまま署名したと主張するが,同供述調書の供述内容には任意性及び信用性が認められ,これによっても,被告人の犯人性が肯定されるという上記判断が更に補強されることになる。
3 原判決
 この第1審判決に対し,被告人は,訴訟手続の法令違反,事実誤認を理由に控訴し,検察官は,量刑不当を理由に控訴した。
 原判決は,被告人の控訴趣意のうち,前記司法警察員に対する供述調書(乙14)には任意性がなく,これを採用した第1審の措置が刑訴法322条1項に反しているという訴訟手続の法令違反の主張について,そのような訴訟手続の法令違反があることは認めつつ,事実誤認の主張については,第1審判決の判断がおおむね正当であり,同供述調書を排除しても,被告人が各犯行の犯人であると認めた第1審判決が異なったものになった蓋然性はないのであるから,この訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことの明らかなものとはいえないとした。その上で,検察官の主張する量刑不当の控訴趣意に理由があるとして,第1審判決を破棄し,第1審判決が認定した罪となるべき事実を前提に,被告人を死刑に処した。
4 当裁判所の判断
 しかしながら,第1審の事実認定に関する判断及びその事実認定を維持した原審の判断は,いずれも是認することができない。すなわち,刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要であるところ,情況証拠によって事実認定をすべき場合であっても,直接証拠によって事実認定をする場合と比べて立証の程度に差があるわけではないが(最高裁平成19年(あ)第398号同年10月16日第一小法廷決定・刑集61巻7号677頁参照),直接証拠がないのであるから,情況証拠によって認められる間接事実中に,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要するものというべきである。ところが,本件において認定された間接事実は,以下のとおり,この点を満たすものとは認められず,第1審及び原審において十分な審理が尽くされたとはいい難い。
(1) 第1審判決による間接事実からの推認は,被告人が,本件事件当日に本件マンションに赴いたという事実を最も大きな根拠とするものである。そして,その事実が認定できるとする理由の中心は,本件灰皿内に遺留されていたたばこの吸い殻に付着した唾液中の細胞のDNA型が被告人の血液のそれと一致したという証拠上も是認できる事実からの推認である。
 このDNA型の一致から,被告人が本件事件当日に本件マンションを訪れたと推認する点について,被告人は,第1審から,自分がC夫婦に対し,自らが使用していた携帯灰皿を渡したことがあり,Cがその携帯灰皿の中に入っていた本件吸い殻を本件灰皿内に捨てた可能性がある旨の反論をしており,控訴趣意においても同様の主張がされていた。
 原判決は,B方から発見された黒色の金属製の携帯灰皿の中からEが吸ったとみられるショートホープライトの吸い殻が発見されていること,それはCなどが被告人方からその携帯灰皿を持ち出したためと認められること,上記金属製の携帯灰皿のほかにもビニール製の携帯灰皿をCなどが同様に持ち出すなどした可能性があること,本件吸い殻は茶色く変色して汚れていることなどといった,上記被告人の主張を裏付けるような事実関係も認められるとしながら,上記金属製携帯灰皿を経由して捨てられた可能性については,Eの吸い殻を残して被告人の吸い殻だけが捨てられることは考えられないからその可能性はないとした。また,ビニール製携帯灰皿を経由して捨てられた可能性については,ビニール製携帯灰皿に入れられた吸い殻は通常押しつぶされた上で灰がまんべんなく付着して汚れるのであるが,本件吸い殻は押しつぶされた形跡もなければ灰がまんべんなく付着しているわけでもないのであり,むしろ,その形状に照らせば,もみ消さないで火のついたまま灰皿などに捨てられてフィルターの部分で自然に消火したものと認められること,茶色く変色している点は,フィルターに唾液が付着して濡れた状態で灰皿の中に落ち込んだ吸い殻であれば,翌日採取されてもこのような状態となるのは自然というべきであることから,その可能性もないとした。
 しかし,ビニール製携帯灰皿に入れられた吸い殻が,常に原判決の説示するような形状になるといえるのか疑問がある上,そもそも本件吸い殻が経由する可能性があった携帯灰皿がビニール製のものであったと限定できる証拠状況でもない(関係証拠によれば,B方からは,箱形で白と青のツートーンの携帯灰皿も発見されており,これはE又は被告人のものであって,Cが持ち帰ったものと認められるところ,所論は,この携帯灰皿から本件吸い殻が捨てられた可能性があると主張している。)。また,変色の点は,本件事件から1か月半余が経過してなされた唾液鑑定の際の写真によれば,本件吸い殻のフィルター部全体が変色しているのであり,これが唾液によるものと考えるのは極めて不自然といわざるを得ない。本件吸い殻は,前記のとおり本件事件の翌日に採取されたものであり,当時撮影された写真において既に茶色っぽく変色していることがうかがわれ,水に濡れるなどの状況がなければ短期間でこのような変色は生じないと考えられるところ,本件灰皿内から本件吸い殻を採取した警察官Fは,本件灰皿内が濡れていたかどうかについて記憶はないが,写真を見る限り湿っているようには見えない旨証言しているから,この変色は,本件吸い殻が捨てられた時期が本件事件当日よりもかなり以前のことであった可能性を示すものとさえいえるところである。この問題点について,原判決の上記説明は採用できず,その他,本件吸い殻の変色を合理的に説明できる根拠は,記録上見当たらない。したがって,上記のような理由で本件吸い殻が携帯灰皿を経由して捨てられたものであるとの可能性を否定した原審の判断は,不合理であるといわざるを得ない(なお,第1審判決が上記可能性を排斥する理由は,原判決も説示するように,やはり採用できないものである。)。
 そうすると,前記2(1)イ以下の事実の評価いかんにかかわらず,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたという事実は,これを認定することができない。
(2) ところで,本件吸い殻が捨てられていた本件灰皿には前記のとおり多数の吸い殻が存在し,その中にはCが吸っていたたばこと同一の銘柄(マルボロライト〔金色文字〕)のもの4個も存在した。これらの吸い殻に付着する唾液等からCのDNA型に一致するものが検出されれば,Cが携帯灰皿の中身を本件灰皿内に捨てたことがあった可能性が極めて高くなる。しかし,この点について鑑定等を行ったような証拠は存在しない。また,本件灰皿内での本件吸い殻の位置等の状況も重要であるところ,吸い殻を採取した前記の警察官にもその記憶はないなど,その証拠は十分ではない。検証の際に本件灰皿を撮影した数枚の写真のうち,内容が見えるのは,上ぶたを取り外したところを上から撮った写真1枚のみであるが,これによって本件吸い殻は確認できないし,内容物をすべて取り出して並べた写真も,本件吸い殻であることの確認ができるかどうかという程度の小さなものである。さらに,本件吸い殻の変色は上記のとおり大きな問題であり,これに関しては,被告人が本件事件当日に本件吸い殻を捨てたとすれば,そのときから採取までの間に水に濡れる可能性があったかどうかの検討が必要であるところ,これに関してはそもそも捜査自体が十分になされていないことがうかがわれる。前記のとおり,本件吸い殻が被告人によって本件事件当日に捨てられたものであるかどうかは,被告人の犯人性が推認できるかどうかについての最も重要な事実であり,DNA型の一致からの推認について,前記被告人の主張のように具体的に疑問が提起されているのに,第1審及び原審において,審理が尽くされているとはいい難いところである。
(3) その上,仮に,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとしても,認定されている他の間接事実を加えることによって,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するとまでいえるかどうかにも疑問がある。すなわち,第1審判決は,被告人が犯人であることを推認させる間接事実として,上記の吸い殻に関する事実のほか,前記2(2)ないし(4)の事実を掲げているが,例えば,Cを殺害する動機については,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったというにすぎないものであり,これは殺人の犯行動機として積極的に用いることのできるようなものではない。また,被告人が本件事件当日に携帯電話の電源を切っていたことも,他方で本件殺害行為が突発的な犯行であるとされていることに照らせば,それがなぜ被告人の犯行を推認することのできる事情となるのか十分納得できる説明がされているとはいい難い。その他の点を含め,第1審判決が掲げる間接事実のみで被告人を有罪と認定することは,著しく困難であるといわざるを得ない。
 そもそも,このような第1審判決及び原判決がなされたのは,第1審が限られた間接事実のみによって被告人の有罪を認定することが可能と判断し,原審もこれを是認したことによると考えられるのであり,前記の「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」が存在するか否かという観点からの審理が尽くされたとはいい難い。本件事案の重大性からすれば,そのような観点に立った上で,第1審が有罪認定に用いなかったものを含め,他の間接事実についても更に検察官の立証を許し,これらを総合的に検討することが必要である。
5 結論
 以上のとおり,本件灰皿内に存在した本件吸い殻が携帯灰皿を経由してCによって捨てられたものであるとの可能性を否定して,被告人が本件事件当日に本件吸い殻を本件灰皿に捨てたとの事実を認定した上で,これを被告人の犯人性推認の中心的事実とし,他の間接事実も加えれば被告人が本件犯行の犯人であることが認定できるとした第1審判決及び同判決に審理不尽も事実誤認もないとしてこれを是認した原判決は,本件吸い殻に関して存在する疑問点を解明せず,かつ,間接事実に関して十分な審理を尽くさずに判断したものといわざるを得ず,その結果事実を誤認した疑いがあり,これが判決に影響を及ぼすことは明らかであって,第1審判決及び原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
 よって,弁護人中道武美の上告趣意第4点について判断するまでもなく,刑訴法411条1号,3号により原判決及び第1審判決を破棄し,同法413条本文に従い,更に審理を尽くさせるため,本件を第1審である大阪地方裁判所に差し戻すこととし,裁判官堀籠幸男の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官藤田宙靖,同田原睦夫,同近藤崇晴の各補足意見,裁判官那須弘平の意見がある。
 裁判官藤田宙靖の補足意見は,次のとおりである。
 私は,多数意見に賛成するものであるが,本件において被告人を犯人であるとする第一審判決及びこれを支持する原判決の事実認定の方法には,刑事司法の基本を成すとされる推定無罪の原則に照らし重大な疑念を払拭し得ないことについて,以下補足して説明することとしたい。
1 第一審判決及び原判決が,被告人を本件の犯人であると認定した根拠は,基本的には,以下のような点である。
(1) 被告人が当日現場マンションに立ち入ったことを証する幾つかの間接証拠が存在すること。
(2) 被告人に被害者らを殺害する動機があったとまでは認定できないが,被害者Cとのやり取りやそのささいな言動をきっかけとして,同人に対し怒りを爆発させてもおかしくはない状況があったこと。
(3) 第三者の犯行を疑わせる状況は見当たらないこと。
(4) 被害者らの推定死亡時刻頃における被告人のアリバイはなく,また,この点についての被告人の供述があいまいであり,不自然な変転等が見られること。
(5) これらの事実は,それ自体が直接に被告人が犯人であることを証するものではないが,これらを総合して評価すると,相互に関連し合ってその信用性を補強し合い,推認力を高めていること。
 しかし,これらの根拠は,以下に見るとおり,いずれも,被告人が犯人であることが合理的な疑いを容れることなく立証されたというには不十分であるというほかないように思われる。
2(1) 被告人が当日現場マンションに赴いた事実を証するとされる間接事実は,仮にこれらの事実の存在が証明されたとしても,そのいずれもが,公訴事実自体とはかなり距離のある事実であり,いわば間接事実のまた間接事実といった性質のものであるに過ぎない。例えばまず,被告人が当時使用していた車(白色のホンダストリーム)と同種・同色の車が事件発生時刻を挟んだ数時間現場の近くの商店前の路上に長時間にわたって駐車されていたという事実は,必ずしも,被告人が使用していた車そのものが駐車されていたという事実を証するものではない。また,近所のバッティングセンターにおいて被告人ないし被告人とよく似た男が目撃されたという事実についても,そのこと自体は,あくまでも,被告人が現場マンションの近くにいたという事実を証するものであるに過ぎない(被告人は,具体的な場所については特定できないものの,当日現場マンションの近くに赴いたこと自体は,必ずしも否定してはいないのである)。
 このような状況にある以上,上記二つの事実は,当日被告人が犯行現場に赴いたということをより積極的に推測させる証拠がある場合にそれを補強する機能しか持ち得ない筈のものと思われるが,そのような積極的証拠としての役割を持たされているのは,唯一,現場マンションの犯行現場に通じる階段の踊り場の灰皿内から発見されたたばこの吸い殻から,鑑定により被告人のものと一致するDNA型が発見されたという事実である。しかし,多数意見も詳細に指摘するとおり,問題のたばこの吸い殻が,発見された際の状況等に照らして,間違いなく被告人が当日当該灰皿の中に投棄したものと推認できるか否か(被告人の吸い殻が入った携帯灰皿をCが過日同マンションに持ち帰り,本件当日以前にCが当該灰皿に投棄した可能性があるという論旨に対し,そのようなことはおよそあり得ないとまで言えるか)については,少なくともそのように断言することはできないように思われる。
 以上要するに,上記の各間接事実の存在によって,被告人が事件当日現場マンションを訪れたという事実については,その可能性が相当の蓋然性を以て認められること自体は否定できないが,その事実自体を証拠上否定できないとまでいうことはできない。更に,仮にこの事実の存在が認定されたとしても,公訴事実との関係では,(被告人がこの点に関し虚偽の供述をしていることが判明したという事実をも含め)それ自体が一つの間接事実に過ぎないのであって,被告人の有罪認定の根拠としては,未だ強力な証明力を有する事実とまでいうことはできない。
(2) 犯行の動機につき,第一審判決及び原判決においては,被告人にCを殺害する動機があったとまでいうことはできないにしても,同女との間のやり取りや同女のささいな言動など,何らかの事情をきっかけとして,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったという事実が,単独ではその推認力には限界はあるものの,被告人の犯人性に関する積極方向の間接事実であると指摘されている。しかし,このように一般的抽象的な状況のみで,当日被告人とCとの間にどのような具体的事実があったのかについておよそ認定されることなく,これを被告人有罪の積極的根拠として用いることについては,疑問を禁じ得ない。すなわち,動機についても,原判決認定に係る事実のみでは,せいぜい,本件犯行の一般的な可能性があることを否定できない(動機があり得ないとは言えない),という程度の証明力しか無いように思われるのである。また,仮にCに対する犯行の動機を,上記のようにその場における突発的な激情ないし憤激(の可能性)に見出すとしても,そこから更に進んで,証拠隠滅の目的のために被告人が日頃可愛がっていた(わずか1歳10か月に過ぎない)被害者Dの殺害にまで至ったという説明についても,十分な説得力があるものとは言えない。
(3) 第三者の犯行可能性について第一審判決がこれを否定する根拠は,いずれも,例えば宅配便や郵便配達を装った通り魔的殺人の可能性を排除するものとして,必ずしも説得的であるとは言えない。なお,本件における捜査のあり方に関しては,本件マンションに立ち入ったことを自供した被告人の平成14年8月17日付の供述調書(乙14号証)につき,原判決もまたその任意性を否定せざるを得なかったことに示唆されているとおり,その適法性につき疑念を抱かせる点が無いとは言えないのであって,捜査陣が,捜査の早い段階から被告人が犯人であると決め付けて,その裏付けとなりそうな事実のみを集め,それ以外の事実については関心を持たなかった(切り捨てた)のではないかという上告論旨の指摘も,全く無視することはできないというべきである。
(4) 被告人の当日の行動についての説明には,極めてあいまいなものがあり,とりわけ,当日立ち寄った場所に関し,一つとして確定的なことを述べていないという点は,大いに不審を抱かせる事実であると言わざるを得ない。しかし,であるからといって,そのこと自体が被告人を犯人と推認させる決定的な事実となるわけではなく,やはり可能性を否定し得ないというだけのことでしかない。また,原判決が重視する,被告人が犯行時刻頃に携帯電話の電源を切っていたという点については,もしこの事実が被告人の本件犯行を裏付ける事実というのであれば,被告人の犯行は計画的なものであり,それが故にこそ前以て電源を切っていた,ということになる筈であると思われるが,本件の犯行が(未必の故意をも含め)予め計画されたものであるとは全く認定されていないのであって,むしろ,上記のように,現場におけるCとの接触の中での突発的・偶発的な殺意によるものであると推測されているのである。果たして,そのような犯行状況の下で携帯電話の電源を切るというような冷静な行動に出ることが,容易に想定され得るであろうか。なお,仮にこの事実が,必ずしも被告人の本件犯行そのものではなく,被告人が被害者宅を訪れること自体を秘する目的であったことを裏付けるものとして引き合いに出されているのであるとしても,バッテリーの消費をセーブするために携帯電話の電源を一時切るという行為自体は必ずしも奇異な行動とは言えない上,そもそも当日被告人が被害者宅を探すために行動していたこと自体は,当初から,特に秘されていたわけではないのであって,それにも拘らず急遽携帯電話の電源を切ることとなったのは何故かについては,第一審及び原審において,なんら明確な認定がされておらず,全ては,被告人が犯人であることを前提とした上での推測に基づくものでしかない。のみならず,仮にそうした事実が認められるとしても,被告人が被害者宅を訪れたという事実自体,本件犯行との関係では一つの間接事実としての位置付けを与えられるものでしかないことは,先に見たとおりである。
(5) 第一審判決及び原判決は,上記の各間接事実について,その一つ一つについては,それだけで被告人有罪の根拠とすることはできないものの,これらを「総合評価」すれば合理的疑いを容れる余地なく被告人有罪が立証されているとする。私もまた,このような推論が一応可能であること自体を否定するものではない。ただ,本件における各間接事実は,その一つ一つを取って見る限り,上記に見たように,さほど強力な根拠として評価し得るものではなく,たばこの吸い殻のDNA型を除いては,むしろ有罪の根拠としては薄弱なものであるとすら言えるのではないかと思われる。本件において認定されている各事実は,上記に見たように,いずれも,被告人が犯人である可能性があることを示すものであって,仮に被告人が犯人であると想定すれば,その多くが矛盾無く説明されるという関係にあることは否定できない。しかし一般に,一定の原因事実を想定すれば様々の事実が矛盾無く説明できるという理由のみによりその原因事実が存在したと断定することが,極めて危険であるということは,改めて指摘するまでもないところであって,そこで得られるのは,本来,その原因事実の存在が仮説として成立し得るというだけのことに過ぎない。「仮説」を「真実」というためには,本来,それ以外の説明はできないことが明らかにされなければならないのであって,自然科学における真実の発見と刑事裁判における事実認定との間における性質の違いを前提としたとしても,少なくともこの理論上の基本的枠組みは,後者にあっても充分に尊重されるのでなければならない。これを本件について見るならば,被告人を犯人と断定するためには,「被告人が犯人であることを前提とすれば矛盾無く説明できる事実関係」に加えて更に,「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」の存在が立証されることが不可欠であるというべきである。有罪の認定に関し「合理的な疑いを差し挟む余地がないというのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定を可能とする趣旨である」という考え方は,当審判例の示すところであるが(多数意見が掲げる平成19年10月16日第一小法廷決定),いうまでもなく,本件について上記に述べた私の考え方はこれと矛盾するものではない。むしろこの判例の趣旨が,個別に見れば証明力の薄い幾つかの間接証拠の積み重ねの上に,「被告人が犯人であるとすればその全てが矛盾無く説明できるが故に被告人が犯人である」とする「総合判断」を広く是認する方向へ徒らに拡大解釈されることは,厳に戒められなければならないと考えるものである。
3 なお,堀籠裁判官の反対意見に鑑み,以下を付加したい。
 先に述べたとおり,私は,「被告人が犯人であることを前提とすれば全ての事実が矛盾無く説明できる」こと(以下「事実①」と称する)のみで被告人を犯人と断定することは甚だ危険であり,有罪の認定に当っては,これと同時に「被告人が犯人でないとすれば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」の存在(以下「事実②」と称する)が認定されなければならないと考えている。その場合,有罪認定の証拠とされる間接事実群のうちいずれかの個別事実のみをもって既に上記「事実②」が認められるならば,それ以上の「総合判断」は必要としないということは,反対意見の指摘するとおりであるが,本件の場合には,そのような事実関係にはなく,正に「総合判断」が必要とされるケースなのであるから,ここでいう「事実②」の必要とは,更に進んで,総合判断の「あり方」に関しても問題とされるものであることは,本来,改めて説明するまでもないことであるように思われる。
 すなわち,「総合判断」に当っては,上記「事実①」と共に,「事実②」もまた充たされているか否かが問われなければならないところ,本件において第一審及び原審が前提とした間接事実のみでは,個別の事実についてはもとよりこれらを如何に「総合」しても,その結果として「事実②」がクリアーされているものとは言えないのみならず,そもそも,その審理に当ってこの問題が正面から意識されているようにも窺えない。多数意見は,正にこの点を問題とするものである。
 なお,反対意見は,「裁判員裁判は,多様な経験を有する国民の健全な良識を刑事裁判に反映させようとするものであるから,裁判官がこれまで形成した事実認定の手法を裁判員がそのまま受け入れるよう求めることは,避けなければならない」とした上で,上記のような考え方につき,「合理的疑いを容れない程度の立証とは何かを説明するためのものであるとしても,先に述べたような趣旨で裁判員裁判が実施された現時点においては,相当ではないと考える」という。しかし,それ自体一般国民にとって必ずしも容易に理解できる概念とは言い難い「合理的疑いを容れない程度の立証」とはそもそもどういうことであるかについての手掛かりを全く与えることなく,手放しで「国民の健全な良識」を求めることが,果たして裁判員制度の本旨に沿うものであるかは疑問であるのみならず,刑事司法の原点に立った上での事実認定上の経験則とは本来どのようなものであるかを明示することは,法律家としての責務でもあるものと考える。
 裁判官田原睦夫の補足意見は,次のとおりである。
 私は,多数意見に同調するものであるが,本件事案の重大性にかんがみ,以下のとおり補足意見を述べる。
 本件は,被告人が本件犯行を全面否認しているところ,被告人と本件犯行とを結びつける直接の物証も目撃証人も存しない中で,原判決及び原判決が被告人の供述調書の証拠能力の点を除いて肯認する第一審判決は,間接証拠の積重ねによって,被告人が本件犯行を犯したものと認定している事案である。しかしながら,第一審判決が挙げる間接事実は,何れも被告人が犯人であるとすれば矛盾しない事実ではあるものの,多数意見にて指摘するとおり「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することのできない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」は含まれてはいないのである。第一審判決の挙げる個々の間接事実は,被告人の犯人性と関連付けるには更なる重要な間接事実を必要とするものや,犯人性との関連性自体が極めて薄弱なものであったり,また,当該間接事実と被告人との関連性が認められるか自体に疑問が存するものであって,それらの間接事実を総合しても,被告人を本件公訴事実にかかる犯人であると認定するには,なお合理的な疑いを払拭できないと言わざるを得ない。以下,被告人の犯人性を示す間接事実として,原判決が肯認する第一審判決が挙げる諸点について検討する。
1 本件吸い殻について
 本件灰皿内から,4月15日に発見されたたばこの吸い殻中に存したたばこ「ラークスーパーライト」の吸い殻から検出された唾液中の細胞のDNA型が,被告人のものと一致したことが,被告人の犯人性にかかる重要な間接事実として位置付けられている。しかし,多数意見にて指摘し,また,後に検討するように,本件吸い殻の状況からして,それが本件当日に本件灰皿に投棄されたものと認定するには重大な疑問が残る上,仮に,同吸い殻が本件当日に本件灰皿に投棄されたと推認できるとしても,当該事実は,即,被告人の犯人性に結びつくものではなく,同事実とは別に,被告人と本件犯行を結びつけるに足る他の間接事実が存する場合に,それを補強する有力な証拠となるにすぎない。
(1) 本件吸い殻が意味するもの
 本件吸い殻が本件灰皿から発見された事実は,本件吸い殻が第三者によって本件灰皿に投棄された可能性(その可能性があることについては,弁護人らは第一審以来,亡Cにおいて,被告人が所持していた携帯灰皿を持ち帰り,その中味を本件灰皿に捨てた可能性があると主張している。)が認められない限り,被告人が本件マンションを訪れた事実を証明するものではある。
 しかし,以下に述べるとおり,その事実は,即,被告人が本件マンションのB方を訪れた事実の推認に結びつくものではなく,いわんや本件の犯人性に結びつくものではない。
ア B夫婦は,平成14年2月28日に本件マンションに引越しているが,本件当日以前に被告人が本件マンションのB方を訪問したことを示す証拠は存しない。また,被告人が本件当日以前にB夫婦の本件マンションの住所を知っていたことを示す直接の証拠も存しない。原判決は,同年3月6日ころのEと被告人との問答に関するEの証言から,被告人は本件当日以前にB夫婦の住所の概要を把握していたと推認できるとするが,同日ころの被告人とE間の会話の内容については,被告人は,Eが第一審公判廷で証言するところと異なり,Bが被告人との離縁届を被告人に無断で提出したことに関する内容であったと述べ,Eに対して暴力を振るった事実を否定しているのである。また,Eは,一貫して被告人が犯人であると思い込んだうえで証言しているところからして,同人の証言の信用性については慎重に判断する必要があり(この点については,項を分けて後述する。),同証言内容をもって,被告人が既に3月6日の時点でB夫婦の住所の概要を把握していたと認定するには無理がある。また,仮に被告人がそのころにB夫婦の所在地の概要を知っていたとすれば,被告人は,本件当日より以前に本件マンションに辿り着いていて然るべきであるが,被告人が本件当日以前に本件マンションを訪れたことを窺わせる証拠は存在しない。
イ B夫婦は,本件マンションに入居後も,その居室である306号室について,1階の集合郵便箱の306号室欄には氏名を表示しておらず(甲5号証,検証調書),また,306号室の入口の表札掲示個所にも氏名を掲示していなかった(甲5号証,検証調書)。
 したがって,被告人が偶々本件マンションに辿り着いても,306号室がB夫婦の住居であることは容易には判明しない状態であった。それ故,被告人がB夫婦の住居を探り当てるには,亡Cに電話で確認するか,本件マンションの住人等に尋ねるしかないところ,被告人が亡Cとその住所について電話連絡したことを窺わせる証拠は全くない。また,被告人が本件マンションの住人等に対してB夫婦の所在を問い合わせる等していれば,本件事件発生後に行われたであろう警察による本件マンション周辺での不審者目撃情報等に関する聴込み捜査において,当然に被告人の行動が把握されていて然るべきであるが,被告人がかかる問い合わせをしていたことを窺わせる証拠は,本件記録上皆無である。
ウ なお,原判決は,被告人が本件当日306号室のベランダにいた亡Cの姿を外から見ることも可能であり,その姿を視認したうえで,被告人がB方を訪ねることが可能であったと摘示するが,そのような事態は偶然の可能性として有り得るというにとどまるものでしかなく,他に何らの補強証拠も存しない下で,そのような偶然の可能性が存することをもって,被告人がB方に辿り着くことができたと認定することは,事実に基づく合理的な推認の範囲を超えるものであって,証拠法則上,到底認められるものではない。
エ 以上のとおり,被告人が本件マンションの建物自体を訪れたという事実が仮に認められたとしても,その事実から直ちには,被告人が本件当日,B方を訪れたと推認することはできないのである。(2) 本件吸い殻の客観的状況
ア 本件吸い殻は,本件翌日の検証時に本件灰皿から採取されたが,その検証時の写真によれば,本件灰皿の蓋を取った状態の下では,灰皿の内容物の上部にはその所在が確認できない。また,本件吸い殻が本件灰皿の中のどのような場所に存したかは不明である(灰皿の内容物を採取したFは,内容物を手掴みで取り出したというのであり,個々の内容物の所在を確認していない。)。
イ 多数意見において指摘するとおり,本件事件から1か月半余経過してなされた唾液鑑定の際に撮影された本件吸い殻の写真によれば,本件吸い殻の全体が変色しているが,かかる変色は,一般的には,吸い殻自体を水等(酒やジュース等を含む。)に漬けるか,相当期間風雨に曝された場合に生じ得る変色である(堀籠裁判官は,検証時に撮影された写真と鑑定時に撮影された写真との間で吸い殻に変色が認められ,それは時間的経過によって生じたものという以外に理由は考えられないとされるが,その間に変色したという事実認定それ自体に疑問があるうえ,本件で捜査官が供述する本件証拠品の保管状況からして,僅か1か月半の間に,堀籠裁判官が述べられるように変色することは,有り得ないというべきである。)。原判決は,フィルターに唾液が付着し濡れた状態で灰皿に落ち込んだ吸い殻であれば,翌日採取されてもこのような状態になるのは自然であると認定するが,普通にたばこを吸う状態の下で,フィルター全体が変色する程フィルターに唾液が付着することは有り得ず,また,それだけ大量の唾液が付着していれば,血液型の鑑定もなし得ると思われるところ,本件吸い殻についてなされた鑑定では,唾液の付着は認められたものの血液型の特定まではできなかったというのであって,それらの諸点からして,原判決の認定は明らかに経験則に反する。
ウ 本件検証の際に本件灰皿の内容物の全体を展示した状況を撮影した写真では,個々の吸い殻の映像が小さくてなかなか判別が困難であるものの,一応本件吸い殻を特定することができる。同写真によれば,本件吸い殻以外で明らかに濡れた形跡のある吸い殻は数本に止まる。もし,本件灰皿に何人かが水を掛け,あるいは,本件火災の際の消火活動によって本件吸い殻が濡れたのであれば,他の吸い殻も同様に濡れていて然るべきであるが,上記写真からは他の多くの吸い殻が本件吸い殻同様に濡れていたとの形跡は窺えない。
 また,本件灰皿の内容物を取り出したFは,内容物が濡れていたか否か,「わからない。覚えていない。」と証言し,その証言の際に,検証時に本件灰皿の内容物を取り出したうえで本件灰皿の底の部分を撮影した写真を見て,錆びてはいるが,湿っているようには見えないと供述している。
エ 本件灰皿は,本件事件当日以前,約8か月間清掃されたことがないというのであって,その内容物には相当に古いものが含まれている。
オ 以上の状態,殊に本件吸い殻全体が濡れる状況に置かれたことがあったか,あるいは長期間風雨に曝された場合に生じるような変色をしていることからして,本件吸い殻は,被告人が本件当日に喫煙したものを本件灰皿に投棄したものとは到底推認し得ない。
(3) 本件当日以前に被告人が喫煙したたばこの吸い殻が本件灰皿に投棄された可能性について
ア 被告人自身が本件当日以前にB方を探しているうちに偶々本件マンションに立ち寄り,その際に本件灰皿に捨てたのが本件吸い殻である可能性も一応あり得る。しかし,被告人は本件マンションを過去に訪れたことはない旨主張しており,被告人のその供述が信用できる限り,この可能性は否定される。
イ 亡Cが被告人の携帯灰皿を持ち帰り,その内容物を本件灰皿に捨てた可能性について
 この点は,第一審以来,弁護人らが主張しているところであり,その可能性を否定する原判決及びその引用する第一審判決の認定が首肯し難いことは,多数意見にて指摘するとおりであるが,その可能性に関する主要な問題点について以下に摘記する。
(ア) 被告人は,常時携帯灰皿を持ち歩き,その灰皿を被告人,E,亡Cが共用していたこと,及び亡Cが時としてその共用していた携帯灰皿を持ち帰ったことがあったことは,記録上明らかである。 (イ) 本件火災現場の6畳間床面上の焼毀物の中から金属製の携帯灰皿が見つかり,その中に2本の吸い殻が存したところ,そのうちの1本は,亡Cが常時喫煙していた「マルボロライト」であったが,他の1本はEが常時喫煙していた「ショートホープライト」であった。本件記録上,亡CとEとが直接会ったことが認められる最後の機会は2月20日であるから,短くとも同日以後本件当日まで55日の間,同灰皿の内容物は投棄されていなかったことが認められる。
(ウ) 本件検証時の写真には,B方台所の三段ラックの上に置かれていた喫煙用具がまとめて入れてあった箱の中に,箱型で白と青のツートーンの携帯灰皿が確認されているが,その内容物に関する写真は,本件記録上存しないことからして,同灰皿には吸い殻が存しなかったことが窺われる。
(エ) Eの証言及び被告人の供述によれば,上記各携帯灰皿の外にも,被告人方にはビニール製のものがあって,それを亡Cが持ち帰っていた可能性が認められる。
(オ) 本件灰皿に存した吸い殻中には,亡Cが日頃喫煙していた「マルボロライト(金色文字)」が4本存したことが認められる。
(カ) 本件吸い殻のような形態でたばこの火が消えるのは,原判決が認定するように灰皿に捨てられたうえでの自然鎮火の場合も勿論あり得る。他方,例えば,机の上等に吸い差しのたばこを置いて,話に夢中になっているうちに机の縁の所で消えてしまい,その吸い殻のみを携帯灰皿に収納しても,本件吸い殻のような状態になることはあり,また,フィルター近くまで吸い終わった後,揉み消す際に火のついた部分が全部落ちると,やはり本件のような状態となり得るのであって,本件吸い殻の状態は携帯灰皿に収納されていたことと矛盾するとは認定できない。
(キ) 多数意見にて指摘しているとおり,以上の諸事実の存在にもかかわらず,それらの諸点について十分に審理を尽くすことなく,弁護人らが指摘する亡Cによって本件吸い殻が本件灰皿に捨てられた可能性を否定する原判決の判断は,是認することはできない。
2 目撃情報について
 原判決及びそれが肯認する第一審判決が摘示する被告人に関連する目撃情報は,被告人との関連性を直接認定できるものではなく,極めて薄い関連性しか認められないものにすぎず,それらの目撃情報をもって,被告人が本件当日,本件マンション付近を徘徊していたと認定するには,なお合理的疑いが存すると言わざるを得ない。
(1) 直接の目撃情報は皆無である。
 本件当日,被告人が本件マンション付近を徘徊していたことを裏付ける確実な目撃情報は皆無である。
 原判決及びそれが肯認する第一審判決は,被告人は本件当日の午後3時30分ころから本件マンション付近にいて,本件火災発生後,本件現場を離れていると認定しているところ,それだけ長時間,本件現場付近を徘徊していれば,当然に何人かの確実な目撃情報があって然るべきである。また,被告人は,住宅街の中でB宅を探し歩いていたのであって,単なる一般の通行人とは異なり言わば目立つ行動をとっていた(キョロキョロ見廻しながら歩いていたとか,通行人等に人の住所を尋ねていた等)のであるから,周辺の住民等による確実な目撃情報があって然るべきである。しかし,本件において,そのような証拠は皆無である。
 さらに,今日では,コンビニエンス・ストアーや有料駐車場等,随所に防犯ビデオが設置されていて,多くの刑事事件において,そのビデオ映像が有力な証拠として用いられているところ,本件では,かかる証拠は全く提出されていない。また,今日,高速道路や国道その他の主要道路には,Nシステムカメラが随所に設置されており,それによって撮影された自動車のナンバーの写真が,刑事事件における犯人の特定に繋がる有力な証拠として用いられていることは,オウム真理教の事件などを通じて裁判所にとって顕著な事実であるが,本件ではかかる証拠も提出されていない。
(2) 駐車の目撃状況について
ア 原判決及びそれが肯認する第一審判決は,被告人が本件当日運転していたホンダストリームと同種,同色の車が,G商店北側空地に駐車しているのが,本件当日の午後3時40分ころ,4時30分ころ,8時ころにそれぞれ第三者に目撃されていた事実を基に,同一の車が同所にその間駐車していたと認定している。
イ しかし,上記各目撃者は,自動車のナンバーまでを目撃している訳ではないのであって,上記の事実のみでは,同一の車が同所に引き続き駐車していたと認定するには論理の飛躍がある。ホンダストリーム自体は,本件当時販売が開始されて以来それ程時間が経っていないとは言え,既に大阪府下だけで6000台以上販売されていたというのであって,同一の場所に同一の車種の車が時間を置いて駐車していたのが目撃される可能性がないとは言えない。また,第一審判決は,上記の各事実から同車は午後3時40分ころ以降継続して駐車していたものと認定しているが,同一人物が2度に亘って目撃しているならともかく,上記の目撃情報は別々の人物によるものであり,殊に午後4時30分ころの目撃から午後8時ころの目撃までの間3時間半余の空白があり,仮にその車が同一であったとしても,その間同車が移動していなかったことが当然に推認できるものではない。
ウ 仮に,G商店北側空地にホンダストリームが本件当日午後3時40分ころから本件火災発生時まで継続して駐車していたとすれば,同所は普段そのように長時間同一車輌が駐車している場所ではないことからして,当然に目立つ状況にあったと認められる。他方,上記駐車場所の横にはG商店のたばこや飲料水の自動販売機が並んでいるのであるから,休日であっても付近の住人等による相当数の利用者はあると推測され,それらの利用者の中からその駐車自動車の目撃者が相当数現れても不思議ではないと思われる。しかし,本件では,大規模な聴込み捜査が行われたと推認されるにもかかわらず,僅か4名(実質3名)しか目撃者を見出せなかったのである。そうすると,それら4名の目撃者は偶々その時刻に駐車しているホンダストリームを目撃したというにすぎないのであって,その目撃状況からして,同一の車輌が同所に継続して駐車していたとまで認定するには,なお論理に飛躍があると言わざるを得ない。
エ Hが午後9時ころにG宅を退去する際に,上記場所でのホンダストリームの駐車に気付いていない点について
 Gの娘婿であるHは,本件当日午後3時40分ころG宅を訪れた際に,上記駐車場所にホンダストリームが駐車していたことを目撃している。しかし,同人が午後9時ころ,G宅を退去するべくG宅前からHの自動車を運転して出発する際に,同駐車場所に何らかの車が駐車していたことには気付いていない。同人は,その理由について,退去時点ではホンダストリームに対する関心が失くなっていたからである旨供述する。しかし,同駐車場所は,Hの自動車が駐車していた位置から発進するに際して,何ら特別の注意を払わずとも当然に同人の視野に入る位置にあった。そして,HはG宅訪問時に同車に気付いた際には,その駐車場所が妻の実家であるG所有地内であったところから,誰か知合いでも来ているのかと思ったというのであるから,その駐車については印象に残っていると思われ,また,同人のG宅退去時に同一の自動車が駐車していたならば,通常,「誰だい,この厚かましい車の運転手は」ぐらいの感情を持つと思われるところ,Hは,上記場所に自動車が駐車していたことに気付かなかったというのである。
 そうすると,Hの退去時に,上記のホンダストリームは,既に同所には駐車していなかったものと推認するのが自然である。
 なお,Hが警察の事情聴取に応じたのは,平成14年5月5日の実況見分に立会った何日前かの記憶はないものの,同人の妻の姉Iからの,「うちの前に白いストリーム停まっていたのを見たことがないか」との問合せの電話がきっかけであると証言しており,Hが警察の事情聴取に応じた際には,不審車輌一般についての捜査ではなく,被告人が本件当日運転していた白いストリームに捜査の関心が注がれていたことが認められるのである。
オ 以上のとおり,G宅前に駐車していたことが4人(実質3人)により目撃されたホンダストリームは,同一車輌であったとまでは認定することはできず,それに加えて本件当日午後9時ころには,同車輌は,G宅前には駐車していなかったものと推認されるのであり,そうすると同車輌は,本件放火事件が発生した本件当日の午後9時45分ころにも,上記場所には駐車していなかったものと推認されるのであって,同自動車について,本件事件との関連性を認めるにはなお疑問が払拭できないのである。
 おって,G宅前に駐車していたことが目撃された上記ホンダストリームは,被告人が本件当日運転していた車と同種,同色ではあるが,それ以上に被告人との関連性を窺わせる証拠は皆無である。
(3) Jの証言について
 Jが,本件当日午後3時30分ころ,本件マンションの近くで被告人に似た人物を目撃したとの証言について,原判決及びそれが肯認する第一審判決は,被告人の犯人性を推認させる重要な事情と位置付けている。
 しかし,Jの証言は,本件当日,本件マンションに近いバッティングセンターの2階から1階への階段付近で,ベビーカーを押していてすれ違った人物から睨まれたことがあるところ,それが被告人に似ていたというにすぎず,当該人物との間では,会話は勿論のこと,それ以上の接触は全くなかったというのである。
 一般に,目撃証言自体の信用性については,その目撃証人の立場や目撃状況を踏まえて十分に吟味すべきことが指摘されているところ,Jの目撃内容は上記に述べたところに止まるのであって,「睨まれた」という事実をきっかけとして同人に一定の印象が残ることはあり得ても,それを超えて被告人を特定するに足りるだけの信用性のある目撃情報とまで評価できるかという点では,疑問が残ると言わざるを得ない。
 Jが,被告人に似た人物を目撃した場所は,バッティングセンターの2階であって,同所はバッティングセンターの利用者又はその関係者しか通常出入りしない所であり,Bがかかる趣味を有していたことを示す証拠は皆無であることからして,被告人が同所に立ち入る可能性は殆ど考えられない。
 また,同センターの1階は,ゲームセンターになっているが,同所に設置されているゲーム機は,少なくとも中学生以上を対象とする成人用の機器であって,亡CがDを連れて遊びに立ち寄るような場所ではない。
 以上の諸点からすれば,Jの証言をもって,被告人が本件当日,本件マンション周辺を徘徊していたとの間接事実として位置付けることにはなお合理的な疑いが存するものと言わざるを得ない(なお,仮に,Jの証言する時刻の前後の時間帯に,被告人が本件現場近くを徘徊していたとの確実な証拠が存する場合には,Jの証言は,その前後の時間帯において,被告人が引続き本件現場近くにいたことを裏付ける間接事実として位置付けることができる。しかし,それ以上のものと評価することはできない程度の証拠である。)。
3 被告人が本件当日B宅を訪問した事実について
(1) 被告人が,本件当日,B宅を訪問したことを直接裏付ける証拠は,本件全証拠上皆無である。
(2) 第一審判決の認定によれば,被告人は,本件当日の午後3時30分前後ころには,G商店北側に被告人車を駐車させて本件マンション周辺を徘徊しており,他方,亡Cは本件当日の午後3時か3時30分ころ,本件マンションのベランダにいたのが付近の住民によって目撃されているのである。第一審判決の認定によっても,被告人自身に対する直接の目撃情報が,2(3)で検討したJ以外に存しないことからして,被告人が比較的早い時刻にB宅を訪れたために,第三者の目撃情報がJの目撃以降途絶えたことが,一応推測され得る。
 そうであれば,本件死亡推定時刻である午後4時ないし6時ころまでの間,被告人はB方で亡Cと面談していた可能性があるということになり,その面談の間に亡CからBやE,あるいは亡Cの母親のKに架電やメールの送信がなされていてもおかしくないと思われる。しかし,かかる事実は全くない。
 なお,仮に亡Cが殺害された時刻が午後4時ころであったとした場合,被告人は,亡Cを訪ねて極めて短時間のうちに本件犯行に及んだことになるところ,後述の動機の検討とも関連するが,果たしてそれだけ短時間のうちに殺意の形成に至るような会話が存し得たかというと,本件記録上認められる被告人と亡Cの関係からして極めて疑問である。また,亡C殺害後,本件放火がなされるまでの長時間の空白についても合理的な説明は困難である。
(3) 原判決が肯認する第一審判決は,亡Cが,日中,在宅時も部屋の入口のドアを施錠し,限られた人間が訪れた際にしか入口ドアを開けようとしなかったことをもって,第三者による犯行の可能性を否定する。
 しかし,B夫婦が本件マンションに引越す前に居住していた「L」は,マンションの入口ドア自体が電子ロック方式であったために,来訪者がB宅を直ちに訪問できない構造になっていたのに対し,本件マンションは,開放された廊下を伝って部外者がB宅に簡単に辿り着くことができる構造である。
 そうして,本件マンションのB宅入口にまで到達すれば,「宅配便」を装い,あるいは一般の居住者が警戒を解き易い身分,例えば「電力会社,ガス会社,水道局,区役所等」を装えば,一般家庭の主婦が入口扉の施錠を解くことは有り得るところである。又,周知のとおり「宅配便」を装った強盗事件が時折発生していることからも,かかる方法により,亡Cの知人以外の第三者が,B宅に玄関から侵入する可能性は決して小さくないのであって,亡Cが普段警戒心をもって,扉の開閉に気を配っていたとしても,その一事をもって,本件犯行が亡Cの知人によるものであり,ひいてはその事実が被告人と本件犯行とを結びつける間接事実であるなどとは,到底評価し得ないのである。
4 被告人が本件当日携帯電話の電源を切っていたことについて
 原判決及び第一審判決は,被告人が本件当日携帯電話の電源を切っていて,Eからのメールに対して,被告人が即時返信しなかったことを重視する。
 しかし,被告人が本件犯行を予め計画して亡C宅を訪れたのであればともかく,原判決及び第一審判決の認定によっても本件は偶発的な事件であるというのであるから,多数意見にて指摘しているように,そのような場合に,被告人が予め携帯電話の電源を切り,亡C宅を訪問することは考え難い。また,被告人は本件当日は,午前9時以降午後5時まで本件携帯電話でのメールの受発信を一切行っていないところ,その間,被告人の携帯電話の電源が切られていた可能性がある。その場合,当該事実は,本件被告人と本件犯行とどのように関連付けられるのか,原判決及び第一審判決の論理からはその回答を導き出すことはできない。
5 犯行の動機について
(1) 亡Cに対する殺害の動機について
 原判決は,「一審判決が説示するとおり,被告人作成のメモやメール等の内容に照らせば,被告人がCに恋慕の情を抱いていたこと及びBに対して怒りを募らせていたことは明らかである。さらに,被告人の言動に照らせば,Cが被告人に対して背信的な行動をとったなどとして,被告人がCに対しても憤りの気持ちを持つようになったことを推認することができる。これだけではCを殺害する動機があったとまではいえないが,Cとのやり取りやそのささいな言動をきっかけとして,Cに怒りを爆発させてもおかしくはない状況があったというべきである」と判示する。
 しかし,被告人の亡Cに対する恋慕の念については,被告人は否定するものの仮にそれが存したとしても,本件当日の約半年前の出来事であり,その後本件当日までの間,被告人の恋慕の情に関連したトラブルが発生した事実は,本件証拠上認められない。また,B夫婦が本件マンションに引越した後である3月14日には,被告人から亡Cへの架電により債務整理の対処についてのアドバイスがなされ,亡Cは,それを詳細にメモに記載しているのであって,被告人と亡C間に,本件当日当時,原判決の認定するような対立感情が存したとは認められない。また,被告人と亡Cとの間に何らかの行違いが存したとしても,両人間の従前の関係からして,それが犬の牽引用の紐を用いての絞殺に至るというのには,その因果の流れに余りの飛躍がある。
 原判決の説示する本件犯行の動機は,全くの推測でしかない。
(2) Dに対する殺害の動機について
 Dに対する殺害の動機について,原判決は何ら触れるところはないが,第一審判決は「Cを殺害したことが発覚するのを恐れて口封じ目的で殺害された可能性が高い」と認定する。
 しかし,それは,第一審判決の証拠に基づかない全くの推測でしかない。被告人が可愛がっていた,未だ1年10月のいたいけな幼児を,単なる口封じ(同児に口封じしなければならないだけの言語能力が存したか否かも本件記録上不明である。)のために脳に損傷を伴うような後頭骨縦骨折を生じさせる強烈な打撃を与えた上で,浴槽に同児を投じて殺害するであろうか。被告人がかかる非情な人物であるとの人間像は本件全証拠からは窺えない。もっとも,被告人とDとの日常生活上の交流が如何なるものであったか,即ち,日常,Dが被告人を「おじいちゃん」として親しく接していたのか,被告人がDを孫としてどのように可愛がっていたのかを彷彿とさせるような証拠は,本件記録上全く存しない。しかし,被告人あるいは被告人夫婦が,亡C,D親子と再三外食に赴いていたこと等は,本件証拠上窺えるのであり,その際に被告人がDを疎んじていたことを窺わせる証拠は皆無である。そうすると,第一審判決が認定するように,可愛いがっていた孫を,果たして口封じのために殺害するであろうか,という疑問は払拭できないのである。
6 被告人の自白調書(乙14号証)の証拠能力について
 第一審判決は,被告人が本件当日,本件マンションに立入ったことがある旨供述する被告人の平成14年8月17日付け供述調書(以下「本件供述調書」という。)について証拠能力を肯定したのに対し,原判決は,同供述は任意性に疑いがあるとして証拠能力を否定した。
 ところで,差戻審においては,改めて本件供述調書の証拠能力が検討の俎上に上がるものと思われ,また,那須裁判官は,その意見において,差戻審においてさらに踏み込んだ審理が必要であると述べておられるところから,その点についての若干の意見を述べておく。
 私は,本件供述調書につき,その任意性を否定し,その証拠能力を否定した原判決の認定は相当であると考える。その点は,原判決の認定に加えて,拘置所の職員で被告人の上司であるMや被告人の知人Nが被告人を病院に見舞った際の状況に関する第一審公判での証言,同月18日から被告人が入院していた際のカルテの記載や身体状況を撮影した写真,さらには,本件供述調書作成当日に,取調官であるOらに付添われて被告人が自宅に帰って来た際の状況を目撃した被告人のマンション居住者の供述書(弁30号証)からして,本件供述調書が作成された当日,Oらにより被告人に対し相当程度の暴行が加えられたことが優に認められるのである。加えて,その取調べの際には,本件吸い殻は本件灰皿に存したものであったことが取調官において明確に認識されていたにもかかわらず,B宅から被告人のDNA型が検出されたとの前提での誘導尋問を繰返し延々と行っているのであって,それらの事実からすれば,被告人の本件供述調書の証拠能力を肯定する余地はないものと言うべきである。
7 Eの,本件事件後,被告人の腕に痣があるのを見たことがあるとの証言及び被告人が着用していたデニムのシャツに絞り皺が存したとの証言について
 検察官は,第一審において,上記Eの証言をもって,被告人の犯人性を裏付ける間接事実であると主張したが,第一審判決はEの上記証言の信用性を否定した。
 この点も,差戻審において再度論点として浮上する可能性があるので,若干の意見を付言しておく。
 私は,上記の各Eの証言の信用性を否定した第一審判決の認定は相当であると考える。ところで,デニムのシャツの皺に関する証言は,Dが浴槽で死亡していた事実に関連するものとして位置付けられるものである。しかし,仮に被告人が犯人であるならば,被告人の慎重な性格からして,もし,腕を水の中に入れる必要があれば,シャツの腕の部分を捲るなどして濡れないようにするだけの配慮をすると思われるのであり,また,Dの死体についての鑑定結果及び同人を鑑定したPの証言によれば,Dは脳震盪を起こしてもよい程度の頭部への傷害を受けていたというのであるから,Dを浴槽内に投棄して殺害するに際し,両腕を濡らすまでして,Dの身体を浴槽内に沈める必要性がなかったことが明らかであり,それらの諸点からしても,Eの上記証言は信用することができないものと言わざるを得ない。
8 Eが被告人を犯人と確信している点について
 Eは,被告人が犯人であると確信している旨第一審及び原審で証言するところ,那須裁判官は,その意見において,「差戻し審においては,同女が被告人を犯人と考えて家を出るに至った点につき,可能な限り検討を加えて,明示的な判断をすることが望ましいと考える。その上で,Eの家を出る原因となった上記確信及びその後の行動について誤解や不合理な判断に基づく点があったとも認められない場合には,夫を擁護する立場の妻をしてそのような行動に走らせた原因につき,それなりの理由があったものと判断し,これを『被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係』の存在判断の一つの資料とすることも,自由心証主義(刑訴法318条)の趣旨に照らし,許されると考える」と述べられ,また,堀籠裁判官も,Eの証言は重い意味を持つものと考えるとされる。しかし,私は,その意見には賛成できない。
 Eが被告人を犯人と確信していたというのは,同女の心的状態を示すものにすぎず,それは,同女が認知した種々の間接事実から帰納し,演繹し,あるいは,第六感によって,かかる心的状態に達していたということを示すにすぎない。このような事件に直接関係しない者の心的状態(確信)をもって,犯罪事実認定の間接事実として位置付けることは,証拠法則上到底許されない。間接事実として意味を有するのは,あくまで同女が聞知した個々の事実である。同女の聞知した事実が,本件犯行の間接事実として位置付けるには余りに因果の流れが遠い場合には,同女がそれらの事実を如何に正確に聞知していたとしても,それは,本件犯行を裏付けるに足る間接事実としては,評価し得ないのである。いわんや,その確信に基づいて家を出たという点は,被告人の犯人性に結びつくものではない。
 Eの証言中,本件犯行の間接事実として意味を有し得るのは,従前の被告人とB夫婦との関係及び7で検討した被告人の腕の痣及びシャツの皺に関する諸点にすぎないが,それらの諸点は,第一審判決及び原判決において十分な検討が加えられている。
 Eは,亡Cが被告人方に同居していた当時から亡Cに対する嫉妬心を顕わにする行動をしていたのであり,本件事件後,捜査関係者やBから被告人のメール等に残存する亡Cへの想いを記した資料を示されたであろうことは容易に推察され,その場合,同女の嫉妬心は,一層掻き立てられたものと推認される。それに加えて,捜査関係者は,5月上旬には,犯人像を被告人に絞り込み,「ホンダストリーム」の目撃情報についての聴込み捜査が行われ,5月5日には,被告人に対して,1回目のポリグラフ検査が実施されており,また,Eは,ほゞ連日に亘る取調べの際に,警察官から犯人は被告人だ,「いろいろ調べていくほどに,濃ゆいということで,説得してくれ」と言われ,警察は余程調べたのだと思ったと証言しているのであって,Eの「被告人が犯人である。」との確信は,捜査官による強い誘導の影響を受けていることが窺えるのである。
9 まとめ
 以上検討したとおり,本件灰皿中に存した吸い殻中,本件吸い殻が一旦濡れたような形跡が認められるにもかかわらずその原因につき究明することなく,また,亡Cが喫煙した可能性のある「マルボロライト(金色文字)」の吸い殻につき,亡Cの唾液のDNA型が存するか否かにつき何ら証拠調べをすることなく,弁護人らの,本件吸い殻は亡Cがその所持する携帯灰皿から本件灰皿に投棄したものである可能性がある旨の主張を排斥した第一審判決及び原判決が,判決に影響を及ぼすべき審理不尽の違法を犯したものであることは明らかである。
 そして,差戻審における証拠調べにおいて,本件灰皿中に残存した吸い殻中から亡Cの唾液のDNA型が検出された場合には,弁護人の主張が正当と認められる蓋然性が認められると共に,本件当日に被告人が本件吸い殻を投棄した可能性は著しく小さくなるのであって,その場合には無罪の判決を言い渡すべきものと考える。
 また,仮に本件灰皿に残存した吸い殻中から亡Cの唾液のDNA型が検出されなかった場合においては,第一審判決及びそれを肯認する原判決が挙示する間接事実から被告人が犯人であるとの嫌疑は強く認められるものの,なお,上記に検討したとおり,本件当日,被告人がB宅に立入った事実及び本件各犯行を実行した事実を推認するには,その推認の過程において論理の飛躍が存することは否めず,被告人を犯人と認定するには,合理的な疑いを払拭し得ないと言わざるを得ない。
 差戻審において,慎重な審理がなされることを望むものである。
 裁判官近藤崇晴の補足意見は,次のとおりである。
 私は,多数意見に同調するものであるが,更に以下の点を補足しておきたい。
1 本件犯行については,その犯人が被告人であることを証明する直接証拠はなく,被告人が犯人であるとするには,幾つかの間接事実を総合することによってこれを推認するほかない。これが本件の特異性であり,そのために本件はまれに見る難事件であるということができる。
(1) 多数意見が要約するように,第1審判決及び原判決は,被告人が犯人であることを推認するための間接事実としてあれこれ列挙するが,その重要性にはおのずから軽重がある。私の理解するところでは,そのうち特に重要なのは,①本件事件の翌日に,本件灰皿内から(B方は本件マンションの306号室であるが,本件灰皿は本件マンション西側階段の1階から2階に至る踊り場に置かれていた。),たばこの吸い殻72本が採取されたが,そのうち1本に付着していた唾液中の細胞のDNA型が,被告人の血液のDNA型と一致したこと,②被告人は,本件事件当日の自身の行動について,あいまいで漠然とした不自然な供述をしており,合理的な説明ができていないこと,の2点である。①の点は,その吸い殻が本件事件当日に投棄されたものであり,投棄したのが被告人であると認められるならば,被告人が当日に本件マンション内の上記踊り場までは到達していたということがほぼ認められる。また,②の点は,被告人が重要な何事かを隠していることを示すものである。
 しかし,①の点については,多数意見が説示するように,上記の吸い殻が本件事件当日に被告人が投棄したものであると認定するには,なお合理的な疑問が残り,第1審及び原審において審理が尽くされているとはいい難い。この点が認められないのであれば,②を含むその他の間接事実のすべてを総合しても,被告人が本件事件当日に本件マンションに立ち入ったと推認する(認定する)ことは到底できず,ましてや被告人が本件犯行を犯したと推認する(認定する)ことはおよそ許されないといわなければならない。
(2) さらに,差戻し後の審理によって,上記の吸い殻が本件事件当日に被告人が投棄したものであると認定することができたとしても,それも本件犯行との関係では間接事実であるにすぎず,被告人が本件犯行を犯したと推認する(認定する)には,なお多くの越えなければならないハードルがある。
 もちろん,被告人が本件事件当日に本件マンションに立ち入ったと推認する(認定する)ことができ,また,被告人が本件事件当日の自身の行動について合理的な説明をすることができないのであれば,これらの事実は,第1審判決及び原判決が挙げるその他の間接事実と共に,被告人が犯人であることと矛盾しないだけでなく,被告人が犯人であるとの仮定とよく整合するものであるといえよう。この場合,本件犯行について被告人に濃厚な嫌疑があることは,否定すべくもないところである。
 しかし,本件犯行が被告人によるものであることが証明されているというためには,A上記吸い殻が本件事件当日に被告人の投棄したものであることに加え,B被告人が本件マンションの306号室を訪れたこと,C被告人が306号室の室内に入ったこと,D被告人がCとDを殺害した上で放火をしたこと,以上の事実が証明されなければならない。そして,BCDの事実を証明するに足りる直接証拠はなく,A→B→C→Dが順次推認されなければ,Dの事実が証明されたとはいえないという関係にあるが,A→B→Cの順次の推認は,その蓋然性が高いとまではいうことができても,推認する(認定する)ことができるとするには,なお疑問が残る。
(3) そしてさらに,仮にCの事実(すなわち,被告人が306号室の室内に入ったこと)が推認された(認定された)としても,これによってDの事実があったと推認する(認定する)こともたやすいことではない。本件記録によれば,被告人には,CやDと濃密な親族関係があり,両人に十分な愛情を有していたことも明らかであって,それが本件のような犯行に出たとするには,よほどの具体的な根拠(動機)が必要であろう。確かに,原審が認定するように,被告人がCに対し性的関心を抱いてそれを行動で示したことがあったこと,Cが背信的な行為をとり続けるBに追随するかのような態度を見せることに憤りの気持ちを抱くようになったことなど,被告人とCの間には感情的な齟齬があったことは認められるが,だからといって,それまで警察官や刑務官として通常の社会生活をしてきた被告人が,一時の憤激によるものであるとしても,殺害までを犯した,しかも,孫として可愛がってきた1歳の幼児までを殺害したと推認するのは,そこに大きな飛躍があると思われる。この点について藤田裁判官と田原裁判官がそれぞれ補足意見で指摘されるところに賛同するものである。
(4) その他,原審が被告人の犯行を認定する根拠の一部とした諸々の間接事実,すなわち,①被告人が当時使用していた自動車と同種・同色の自動車の駐車,②バッティングセンターにおいて被告人に「よく似た人物」が目撃されていること,③被告人の携帯電話の電源が切られていたことなどが,被告人の犯行を認定する上でそれほど有力な根拠になり得るものでないことも,藤田裁判官と田原裁判官がそれぞれ補足意見で指摘されるとおりである。
 2 以上要するに,前記の吸い殻が本件事件当日に被告人が投棄したものであると認定することができない場合はもちろん,これを認定し得る場合であっても,被告人が本件犯行を犯したと認定するためには何段階もの推認を重ねなければならないのであって,これが合理的な疑いを入れる余地なく成立しているとすることに,私はたやすく賛成することができない。もちろん,先に述べたように,本件犯行について被告人に濃厚な嫌疑があることは,否定すべくもないところである。しかし,本件のように間接事実の積み重ねによって被告人の犯行を認定するほかない場合には,多数意見が説示するように,「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」が存在することが不可欠であると解すべきであり,そうでなければ,刑事裁判の越えてはならない一線を越えることになるのではないかと危惧するものである。本件においては,そのような事実関係の存在が立証されているとはいえず,被告人以外の何者かの犯行である可能性が合理的な疑いを入れる余地なく否定されているとはいえないと考える。
 ただ,前記の吸い殻が本件事件当日に被告人が投棄したものであるかどうかについて審理を尽くすほか,本件犯行の重大性にかんがみれば,上記の観点に立って双方が更に追加的立証を行う機会を設けることに意義があると考えるので,私は,無罪の自判をするのではなく,本件を第1審に差し戻すことが相当であると考え,多数意見に賛同するものである。
 裁判官那須弘平の意見は,次のとおりである。
 多数意見のうち,結論部分(主文)には賛成する。同理由のうち,「合理的な疑いを差し挟む余地のない証明」がなされたかどうかを判断する一つの基準として,直接証拠がなく情況証拠によって有罪の認定をする場合には,情況証拠によって認められる間接事実中に「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」が含まれていることを要するとする点についても賛成し,これを支持する。しかし,多数意見が,その具体的適用の一環として,第1審判決及び原判決中に審理不尽があると指摘する個々具体的な問題点の中には,賛同できない部分がある。また,多数意見中では指摘されていないが,「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」の存否を判断する上で見落とせないと思われる点も複数存在する。そこで,これら多数意見と見解を異にし,あるいは多数意見が触れていない問題点を中心にして,以下のとおり私の見解を示しておきたい。
1 被告人の本件マンション立入り問題と犯人性の認定
(1) 本件灰皿内に遺留されていた本件吸い殻に付着した唾液中のDNA型が被告人の血液のそれと一致したという事実から,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたと推認してよいか。これは,本件の核心的争点であるが,多数意見が指摘するとおり,第1審判決及び原判決が挙げる複数の間接事実(事件当日,被告人が本件マンション付近に長時間自己の運転する自動車を駐車させていたことを窺わせる事実及び同じく本件マンション付近のバッティングセンターにおいて被告人によく似た人物が目撃されている事実等)を勘案しても,他の携帯灰皿を介しての被害者等による投棄の可能性等の問題がなお残ることから,第1審及びこれを是認する原審のような推認をすることには無理がある。やはり,マンションの階段にあった本件灰皿から採取された本件吸い殻の変色の原因の究明(本件事件当日,採取までの間に消火活動に伴う放水等の影響で,水に濡れた蓋然性があったか否かを含む)及び他の吸い殻に付着していたかも知れない唾液のDNA鑑定及びこれと被害者ないし被告人の周辺関係者のDNA型との比較検討等を欠かすことはできず,この点についてさらに審理を尽くす必要があると考える。
(2) 他方で,多数意見が「仮に,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとしても,認定されている他の間接事実を加えることによって,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するとまでいえるかどうかにも疑問がある」とする点については,私は見解を異にする。
 そもそも,被告人には犯行に至ってもおかしくない人間関係が存在することは否定しがたく,これに妻Eとの間での携帯電話のやりとりをめぐる被告人の不自然な行動,及び事件当日の被告人の行動につき被告人自らによる合理的説明がなされていないこと,犯行現場の状況や犯行の手口等からみて犯行が被害者と近しい関係にある者によって敢行された可能性を否定できないこと等の間接事実が存在することを踏まえると,被告人が犯人ではないかとの疑いは拭いがたいものがある。そのような証拠状況に加えて,さらに,本件吸い殻に関する差戻し後の審理の結果として,被告人が当日本件マンションに赴いた事実が証拠から認定できる状況が生じた場合を想定すれば,被告人が犯人ではないかとの疑惑は極めて強いものになるはずである。そして,この場合には,被告人が第1審及び原審を通じ,本件マンションへの立入りを強く否定し続けてきたことと両立しがたい客観的事実(立入りの事実)の存在が明らかになったことになるのであるから,そこに「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」が存在すると認めざるを得なくなる。したがって,なぜ被告人が事実に反して立入りを否定し続けたのかについての説得力を持った特別な理由が被告人から示されない限り,被告人が犯人であることにつき「合理的疑いを差し挟む余地のない程度の証明」がなされたものと認めて差し支えないと考える。
2 間接事実からマンション立入りに関する推認ができない場合の対応
 問題は,むしろ,1で検討したことのその先にある。差戻し後の審理を経ても,被告人が本件吸い殻を当日本件灰皿に捨てたことを裏付ける新たな証拠の存在を確認できない状況のままであるときに,裁判所が現時点で存在する他の証拠ないし間接事実を吟味し直して,やはり被告人が事件当日本件マンションに立ち入ったと認定し,有罪方向での判断をすることが許されるか。この点について,多数意見は否定的な見解を採るものと解されるが,私はなおこれを肯定する余地が残されていると考える。すなわち,
(1) 第1審判決は,多数意見がその2(1)アないしオにおいて要約する複数の情況証拠から間接事実を認定し,その間接事実を総合することによって当日の立入りの事実を認定する手法を採用しているが,それだけでなく,別系統の直接証拠である乙14号証(平成14年8月17日付けで警察官が作成し,被告人が署名指印した被告人供述調書)をも援用し,この調書の任意性及び信用性を認めた上で,被告人の犯人性を肯定する判断の補強とする,という二段構えの理由付けをしている(第1審判決63頁)。
 この調書は,「本年4月14日は,Bの事が色々心配で午前中も堺方向をさがし,午後2時ころ,自宅マンションを出て,Bをさがしに行っています。そして時間は,はっきり覚えていませんが,午後5時前ころに,B夫婦の姿が無いか,さがすために,Qに入っていると思います。このマンションは,4階建で道路からマンション敷地内に入り,すぐの所にある入口を入って,階段を上っています」という供述を含む極めて簡単なものであり,本件犯行自体を直接に認める内容のものでもない。
 しかし,被告人が事件当日の午後2時過ぎころに自宅を出てホンダストリームに乗って平野区方面に向かい,午後10時ころまで同区内ないしその周辺で行動していたこと,その目的はBないしB方を探すためであったことは,被告人自身が認めて争わない事実であり,さらに捜査段階においては,事件当日,本件マンション付近にホンダストリームを駐車したことを自ら明確に捜査官に告げ,その供述を維持していた事実もある。第1審判決は,これらの情況証拠をも踏まえた上で,同自白調書の任意性と信用性を認めたものと理解できるのであって,後記取調べに際しての暴行ないしこれに近い強制の有無という点でなお問題が残されているとはいえ,その判示するところが論理則,経験則に照らして不合理であるとまではいえないと考える。
(2) 第1審判決が,同調書につき,被告人の本件マンションへの立入りの事実を認定するための直接の根拠とせず,まず前記のとおりの情況証拠による間接事実の認定という作業を積み重ねて被告人の犯人性を推認した上で,同推認による判断は,同調書によって「さらに補強されることになる」とした真意は必ずしも明らかではない。しかし,任意性について争いのある供述調書による直接的な認定を敢えて避け,情況証拠から間接事実を認定し,間接事実の積み重ねにより被告人の犯人性を認定し,その上で同調書を補強的に援用するという手法を採ったと理解できないでもなく,そうとすれば,このような選択がとかく自白偏重の批判を受けがちなこの種事案について,手堅い審理の実現という点で,一定の積極的意義を有するものと評価することも可能となる。いずれにせよ,乙14号証については,任意性及び信用性を認めることができるか否かという基本的問題が残されている点を除けば,他の証拠に比べて質的に劣るという性格をそれ自体として持つのものでもないことは明らかである。
 したがって,差戻し審において,被告人が本件吸い殻を当日本件灰皿に捨てたことを裏付ける新たな証拠の存在を確認できない状況のままであっても,直接証拠である乙14号証に新たな位置付けをした上で,その供述に沿った事実の認定をすることも手続的には不可能ではないと考える(その前提として,後述のとおり,被告人が主張する取調べに際しての暴行ないしこれに近い強制があったかどうかに関する厳密な再吟味を経て,任意性及び信用性を確認する必要があることはいうまでもない)。
3 乙14号証作成時の暴行等の有無の問題
 乙14号証は,任意捜査の過程で作成されたものであるが,被告人は公判廷においてその作成経緯につき,「3人の警察官から,10時間以上にわたり,殴る,蹴るの暴行を受けた上,椅子に座ったまま自分の足首を握るという二つ折りの体勢を取らされたり,ナイロン袋を頭からかぶせて呼吸ができないようにされ,また,両手を柔道の帯で後ろ手に縛られた」などと供述している。これに対し,取調べに当たった警察官は,暴力を振るった事実を全面的に否定している。第1審判決はこの点につき,「被告人の取調べ状況に関する供述を額面どおりに受け取ることはできない」として被告人の主張を斥ける一方,警察官の証言の信用性を肯定したが,原判決は,「被告人が主張するような暴行があったと疑いなく認めることはともかくとして,被告人が任意に供述をしたものと疑問の余地なく認めることにも躊躇があり,乙第14号証に証拠能力を認めて取り調べた第1審裁判所の措置は,刑事訴訟法322条1項に反したものである」として,第1審判決とは反対の判断を示した(ただし,この証拠を排除しても,他の証拠を総合すれば,被告人が各犯行の犯人であることを認めた第1審判決の判断が異なったものとなった蓋然性はないとも判断)。
 しかし,任意捜査の段階において,10時間以上にわたる取調べをすること自体大きな問題であるが,さらに被告人の主張するような暴行やこれに近い強制の違法捜査(それ自体犯罪に該当する行為である)があったのが事実であるとすると,単に乙14号証の任意性,信用性の判断に影響を及ぼすだけでなく,担当の捜査官による捜査の信頼性が強く揺らぐため,本件吸い殻の採取や鑑定依頼の手続,ひいてはDNAの鑑定結果の信頼性についても影響が及ぶことは必至である。必然的に,「他の証拠を総合すれば,被告人が各犯行の犯人であると認めた一審判決の判断が異なったものになった蓋然性はない」という原審の判断の相当性にも強い疑念が生じることになる。
 他方で,上記の点に関する被告人の主張の基本的な部分に虚偽ないし大きな誇張があるとすると,被告人の供述の信用性が大きく揺らぎ,ひいては,その虚偽ないし誇張の供述の存在自体が「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」に当たるか,少なくともその一部を構成するとして,有罪認定の根拠とされることにもなりかねない。
 原判決は,暴行の存否について踏み込んだ判断を示すことなく,乙14号証の任意性判断の問題に限定した処理をするにとどまっているが,被告人と捜査官のいずれが嘘を言っているのかの問題が本件全体の見立てに大きく影響する重要な争点であることは上述のとおりであることを考慮すれば,この点に関し差戻し審においてさらに踏み込んだ審理がなされることが必要であると考える。
4 妻の証言の位置づけ
 被告人の妻であるEは,事件発生から約1か月半を経た5月末に,「被告人が犯人」との確信を深め,自宅を出て被告人と別居する生活を始めた。同女が,そう確信するに至った根拠について公判廷で詳細に証言しており,一つ一つは夫婦の間の些細なエピソードに過ぎないにしても,これが積み重なることによって,全体として被告人が犯人であると確信するに至った経緯が比較的詳しく示される内容となっている。それまで不仲でもなかった妻が夫に対しこのような厳しい認識を持つに至り,審理の中でもこの認識を維持してこれに沿った証言をしている事実は,一般的に見て極めて重い意味を持つ。その証言が第1審において被告人を犯人であると判断するに際し,微妙な影響を与えたであろうことは想像に難くない。
 もっとも,第1審は,判決書の上では同女の証言を,本件事件発生に先立つ時期において,被告人が被害者であるCに対し,性交渉を迫る等の行為に及んでいたかどうか,「恋慕の情」を抱いていたかどうか等を含め犯行の動機に関する間接事実の認定に用いたり,本件事件発生時前後の被告人の行動に不自然ないし不審な行動がなかったかどうか等の間接事実の認定に用いたりしているものの,Eがなぜ夫である被告人を犯人であると確信して家を出るに至ったのか,果たしてその判断ないし行動に合理性があったのかについては,詳しく判示していない(そもそも,このような微妙な点について判決書の中に記載することは技術的に困難であり,かつ刑事訴訟法上も要求されていない)。しかし,本件が,被告人の犯人性をめぐって激しく争われ,当審における裁判官の見解も分かれるような状況にあることから,差戻し審においては,同女が被告人を犯人と考えて家を出るに至った点につき,可能な限り検討を加えて,明示的な判断をすることが望ましいと考える。その上で,同女の家を出る原因となった上記確信及びその後の行動について誤解や不合理な判断に基づく点があったとも認められない場合には,夫を擁護する立場の妻をしてそのような行動に走らせた原因につき,それなりの理由があったものと判断し,これを「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」の存在判断の一つの資料とすることも,自由心証主義(刑訴法318条)の趣旨に照らし,許されると考える。
5 「審理不尽」による差戻しの必要性
(1) 本件については,被告人の犯行を示す直接的な証拠が存在せず,情況証拠を積み重ねても,被告人が犯人であると認定することにつき「合理的な疑い」を拭い去るほどの立証がなされたかどうか,当審における裁判官の中でも意見が分かれる難しい事案であり,私を除いても複数の裁判官が「合理的疑い」が残るとの見解を採っている。このような状況の下では,当審の判例(多数意見が掲げる平成19年10月16日第一小法廷決定)に照らしても,合理的な疑いを超えた証明は未だなされていないと判断する外なく,原判決破棄の点では,多数意見に同調するのが合理的であると考える。
(2) 問題は,事実審である第1審判決までも破棄する必要があるかどうかである。第1審では,担当裁判官は公判廷でなされた被告人及び多数の証人の供述を直接見聞きして心証を形成したはずであるが,その心証形成の過程が判決書に細大漏らさず記載されているわけではないし,法律上もそのようなことが要求されているものでもない。その意味では,第1審の事実認定について当審が介入できることには限界がある。また,第1審に差し戻しても,被告人や証人の生の供述に接した裁判官は審理に関与できないし,過去に得られた証人等の供述を法廷で再現することも期待できず,結局は既存の記録を再度精査する作業が中心となると考えられる。そうすると,第1審に多数意見が挙げるような瑕疵が存在するとしても,原審においてこれを修正・補充して適切な判断をすることも可能であり,かつそれで足りるのではないかとも考えられる。他方で,しかし,被告人が本件マンションに当日立ち入ったか否かが本件の核心的な争点であるにもかかわらず,この点に関する第1審の検討に不十分な面があったことは否めず,本件の重大性をも考慮すれば,原判決を破棄するだけでなく,第1審判決をも破棄すべしとする多数意見の考え方にも頷ける点がある。はなはだ判断に迷うところではあるが,当事者の審級の利益も考慮して,第1審における一段と慎重な判断を期待するという趣旨で,多数意見に同調することとしたい。
 裁判官堀籠幸男の反対意見は,次のとおりである。
 私は,第一審判決及び原判決に事実誤認又は審理不尽があるとする多数意見には,賛成することができない。その理由は次のとおりである。
第1 本件吸い殻について
1 本件吸い殻は本件マンションの階段の灰皿内から押収されたものであり,この吸い殻に付着した粘膜細胞のDNA型が被告人のものと一致していることは明らかであるところ,多数意見は被告人の吸い殻が携帯灰皿に入れられたまま被害者宅に残されており,これを被害者Cが階段の灰皿に捨てた可能性を否定することができないから,上記事実から被告人が被害者の住む本件マンションに立ち入ったことを推認することができないとする。そして,その主たる根拠として,本件吸い殻が変色している点を挙げる。そこで多数意見の説示が証拠に照らし相当であるかどうかについて検討する。
2 事件翌日の4月15日から実施された検証において撮影された写真(司法警察員作成の平成14年7月2日付検証調書添付No.1402の写真。以下「写真A」という。)によれば,本件吸い殻は,フィルターが白いものの右列の下から7番目の吸い殻である。また,6月3日から着手された唾液鑑定において撮影された写真(大阪府警技術吏員作成の鑑定書添付の写真1。以下「写真B」という。)によれば,写真Aと同じ面の吸い殻は,上段の方である。
 写真Aと写真Bを比較すると,明らかに写真Bの吸い殻(フィルター部分)の方が濃く変色しており,その相違は顕著である(写真Aに写っている吸い殻は小さいが,拡大すればこのことは明らかである。)。
 もっとも,写真Aについては,光の具合で本件吸い殻が白く見えるのではないかとの反論も考えられるが,写真Aの吸い殻の中には本件吸い殻よりも濃く変色している吸い殻も写っているから,そのように考えるのは無理である。
3 本件吸い殻は,押収後,捜査機関が保管していたものであるから,その間に吸い殻が変色する原因となる物質が付加されたとは考えがたいところであり(そのような証拠はない。),写真Aの吸い殻と写真Bの吸い殻とを比較して,変色が顕著であることの理由は,多数意見は何ら触れていないが,時間的経過の結果生じたものという理由以外には考えられない。
4 先ず,本件吸い殻が,仮にCにより捨てられたものと仮定すると,Cが被告人方を最後に訪れたのは,平成14年2月20日ころであるから,被告人が本件吸い殻にかかるたばこを吸ったのは,平成14年2月20日以前であり,本件吸い殻は,被告人が吸ってから写真A撮影時まで少なくとも2か月弱経過していたことになる。写真Aと写真Bが撮影された時間的間隔よりも,経過時間は長いのである。被告人が吸ってから少なくとも2か月弱経過しているのに写真Aの程度にしか変色が見られないというのはいかにも不自然というほかない。
5(1) そこで,次に,本件吸い殻の変色の原因は,吸い殻自体を水等に漬けたことによるものか,相当期間風雨に曝されたことによるものかが問題となる。
(2) まず,本件吸い殻が灰皿に捨てられた後に,水等が灰皿に入れられたり,又は風雨に曝されたりした場合には,その灰皿にあった他の吸い殻にも影響を及ぼすことは明らかであるが,写真Aによると他の吸い殻は全体として白っぽく,この灰皿に水等が入れられたり,また風雨に曝されたと認められるような形跡は全くない。
(3) また,本件検証当時,本件灰皿は濡れていたかどうか記憶がないとの警察官の証言があり,写真A等からしても,吸い殻全体が乾いているように見える。もし水等に漬かるか風雨に曝されたというのであれば,写真Aの撮影時に他の吸い殻も既に変色していたはずであると考えるのが自然である。
(4) そうすると,本件吸い殻が水等に漬けられたことがあったとすれば,それは,捨てられた後に水等に漬かったり,風雨に曝されたと考えるよりも,本件たばこを吸った人がたばこを消すために行ったものと考えるのが,写真A等の状況に合致するのである。
6 本件吸い殻が写真Bの吸い殻のように顕著に変色したのは,たばこの火を水等に漬けて消したため,たばこの成分がフィルターの部分に浸透し,時間の経過によって乾燥してフィルターの紙が変色したためと考えるのが自然である。
7 以上検討したところによれば,本件吸い殻の変色の状況に関する証拠からは,本件吸い殻にかかるたばこは,写真Aが撮影された時点に近い時期に吸われたものと考えるのが相当であり,写真Aの撮影時点から約2か月弱前に吸われた可能性があると考えるのは無理である。
8 そして,吸い殻が携帯灰皿に入れられた場合,吸い殻の周囲に灰が付くのが通常であり,現に被害者宅で見つかった携帯灰皿の中にあった吸い殻には灰が付着しているのであり,また,ビニール製携帯灰皿に吸い殻を入れて持ち運べば蓋のスナップを止めるときなどに吸い殻は押しつぶされたようになるはずであるが,本件吸い殻には灰が付着した形跡も押しつぶされた形跡もなく,これらの事実は,本件吸い殻が吸った後,直接階段の灰皿内に捨てられたことを補強するものというべきである。
9 したがって,本件吸い殻の変色の点を根拠に本件吸い殻が携帯灰皿を経て捨てられたものである可能性を否定することができないとする多数意見は,客観的証拠の評価を誤ったものであり,賛成することができない。
第2 被告人の犯人性について
1 犯行当日,被告人が本件マンションに立ち入ったことについて
(1) 第1において述べたように,本件吸い殻にかかるたばこは,写真Aが撮影された時点に近い時期に吸われ,本件マンションの階段に捨てられたものというべきである。そして,被告人が本件マンションに本件犯行前に立ち入ったことがあると弁解しているのであれば格別,被告人はおよそ本件マンションに立ち入ったことがないと主張している本件の場合においては,被告人が本件吸い殻にかかるたばこを吸ったのは,犯行当日であると推認することができるものと考える。第一審判決及び原判決が,本件吸い殻にかかるたばこにつき,犯行当日,被告人が吸ったものであると認定したのは,結論において相当である。
(2) 事件当日,午後3時40分ころから午後8時ころまでの間,被告人が当時使用していた自動車と同種,同色の自動車が本件マンションから北方約100mの地点に駐車されていたと認められるところ,被告人自身捜査段階において,本件当日に自己の運転する自動車を同地点に駐車したことを認めているのであり,また,事件当日,午後3時過ぎないし午後3時半ころまでの間に本件マンションから北北東約80mにあるバッティングセンターにおいて,被告人によく似た人物が目撃された事実が認められるのであって,事件当日,被告人が本件マンションの近くにいたことは十分に認められ,この事実は,(1)の事実を補強する事実というべきである。
2 犯行当時の行動に関する被告人供述が極めて不自然で,かつ,虚偽であることについて
(1) 被疑者・被告人には法律上黙秘権が付与されているから,アリバイについて黙秘することをもって,被告人に不利益な心証を形成することが許されないというべきである。また,一般論として,犯罪の立証責任は,検察官にあるから,アリバイに関する主張・立証を被告人がしないことをもって,被告人に不利益な方向の判断をすべきでないといえよう。
 しかし,被告人には虚偽の内容の供述をして罪を免れる権利が付与されているわけではないから,黙秘権を放棄して供述した場合に,その供述の内容が虚偽であると認められるときに,そのことが被告人に不利益な方向の判断へ働くことが許されるのは当然であろう。
(2) そして犯罪発生から間もない時期に,被告人のアリバイが問題となっていることを被告人自身が十分に認識しており,被告人が犯人でなければ当然に何らかのアリバイに関する信用し得る供述をなし得る状況の下で,あえて虚偽のアリバイ供述をした場合には,被告人が犯行現場にいたのではないかと強く疑われるというのが社会一般に通用する経験則であろう。
(3) 被告人は,本件事件発生の2日後である4月16日には,警察官からアリバイについて事情聴取され,自分のアリバイが問題となっていることを十分に認識し,その日に妻に対しては,「14日のことは何一つ覚えていない。自分のアリバイがない」旨話しているのである。
 被告人は,Bの行動に関し,「事実認定証明書」を作成し,また,第一審,原審及び当審において,自己の主張をまとめた文書を作成し,提出するなど,極めて几帳面であり,その内容の正確性を期そうとする性格であることが明らかである。
(4) ところが,被告人のアリバイに関する供述は極めて曖昧ないしふらついており,かつ,矛盾した供述,変更した供述をしており,一つとして確定的なことを述べていないのである。被告人は,公判では,平野区内においてB宅を探し回り,5,6箇所で車から降りて建物の様子等を確認したと供述するが,捜査段階における引当たり捜査において1箇所も特定できなかったのであり,ことさらといってよいほど具体性を欠くものとなっている。
 被告人のアリバイに関する供述は,極めて不自然で,かつ,虚偽であるといわざるを得ない。
(5) 確かに,犯罪発生から相当期間経過後に身に覚えのない者に対しアリバイを求めた場合に,アリバイに関する供述が曖昧になることがあるが,本件はそのような場合には当たらない。
 また,犯罪の嫌疑をかけられた者が,他のより重要な別の利益を守る目的で虚偽のアリバイを供述することも考えられるが,本件は2名の殺害の疑いがかかっている場合であるから,より重要な別の利益を秘匿するためということも考えられない。
(6) そうすると,被告人は,本件犯行時刻当時どこにいたかという事実を隠していることは明らかであって,被告人が隠している事実は,まさに犯行時刻に犯行現場にいたという事実であると推認することができるというべきであろう。
3 本件の動機について
(1) 第一審判決は,被告人がCに対し,性交渉を迫る,抱きつく,キスをするなどの行為に及んでいたことは証拠上十分に認められるし,これに被告人の手帳の記載を併せ考慮すれば,平成13年10月ころ,被告人はCに対し,恋慕の情を抱いていたものと認められると判示する。この認定は,証拠上十分に是認することができる。
 CはBの妻であり,Bは養子とはいえ,社会的には息子である。息子の妻に対し,性交渉を迫る,抱きつく,キスをするなどの行為に及ぶということ自体,極めて異常なことであり,被告人は性的な面では,異常な行動に出る性癖があるといわざるを得ない。
(2) 確かに,平成13年10月以降,被告人が上記のような行為に及んだ形跡はないが,これは,Cが被告人からの誘いを拒絶し,被告人宅から事前に告げることなくBのもとへ戻った上,Bと行動を共にするようになり,被告人との接触を極力避けてきたことによるものである。
(3) 被告人は平成14年2月19日,20日とCに会って連絡がとれるようになり,Cに対する思いが再び募ったということは,十分に推認し得る。司法警察員に対する調書で「Cが,Bがほとんどセックスをしてくれないというような内容のこともいってきて,相談にのってやったこともあります」旨述べていることからも,被告人がCに対し性的関心を持っていたことは,明らかである。
(4) 本件事件当日,被告人の妻は勤めに出ていることから,被告人はCに対する性的関心もあって,Cのところに赴いたことは十分に考えられるところである。このような行動は,被告人にとっては妻に対する背信的行為となるから,被告人がCに会おうとした時点から携帯電話の電源を切るという行動にでることは,自然なものというべきである。そうすると被告人はCに会おうと考えて携帯電話の電源を切ったと推認するのが最も自然である。そして電源を再度入れたのが犯行が終わって間もない時刻であることを考えれば,単なる偶然の一致として説明するのは相当でない。
 多数意見は,被告人がなぜ携帯電話の電源を切ったのか説明できないのである。
(5) 被告人はCに会い,同女との間のやり取りや同女のささいな言動など,何らかの事情をきっかけとして,Cに対して怒りを爆発させて殺害したと推認することは不自然とはいえない。
(6) このように被告人につき,殺害の点では偶発的といわざるを得ないが,被告人がCに会おうとしたことについては計画的であったというべきである。被告人が携帯電話の電源を切ったのは殺害のためではなく,Cに会うためであると推認することは,十分に可能である。
4 外部犯人説について
(1) Cは,警戒心が強く,債権者らを警戒して普段鍵をかけていたから,鍵をこじ開けた形跡がない本件においては,Cが鍵を内から開けたと考えられる。
 警戒心の強いCが自ら鍵を開けた相手方としては,Cの顔見知りの人のほか,論理的には「宅配便」を装った者や居住者が警戒を解き易い身分の者(電力,ガス,水道局の関係者)が考えられる。
(2) そこで,現場の状況を見ると,Cはジーパンを脱がされたパンティだけを付けた状態であり(性的犯罪を示す),犬のリード付き胴輪の端が箪笥にはさまれており(自殺を示す),引き出しや電子レンジ等の扉が開けられていた(財物目当ての物色を示す)。しかし,これ以上にCが性的犯罪の被害を受けたことや強盗等の財産的被害を受けたことを窺わせる形跡はない。また,面識のない外部犯行者の行動としては自殺偽装以外の工作をすることは考えられない。
(3) 本件では,複数の矛盾する工作をしており,これは犯行直後の狼狽によるものと考えられる。
(4) このように見てくると,Cが鍵を開けた相手方は,Cの顔見知りの人であると推認することは相当性を欠くものとはいえない。
5 事件直後における被告人の行動について
(1) 被告人が翌日に事件を知ってからの行動
 被告人は,15日午前7時10~30分に弟に電話して事件を知ったとする。被告人は,午前8時20分ころには職場を出ながら,その後どこにも行かず,午前10時ころに弟から電話がかかってきて弟宅へ向かい午前11時過ぎくらいに着き,午後0時半ころに弟宅を出て,午後3時か3時半に妻Eのいる自宅に着いて(必要な時間は40分ないし1時間),その後,Eに話をしている。
 この経過をみると,職場を出た後に弟から電話があるまでと,弟宅を出て自宅に戻るまで,それぞれ1時間半ないし2時間の空白時間がある。被告人は,「動揺していたので道端で車を寄せて精神を落ち着かせた」「Eにどう話すかを考えていた」というような説明をしているが,事件前までの被告人の行動や,職場での対応等からすると,被告人がそのように動揺する人物であるか疑問があるし,被告人の主張によれば被告人自身詳しい状況が分かっていないというのであるから,まずはEに知らせ,一緒に警察に行くなどの対応をとるはずであるのに,それをしていない被告人の行動は,極めて不自然といわざるを得ない。
(2) 被告人の指の傷
 被告人は事件直後に指にけがを負った状態になっている。被告人も傷は認め,事件翌日に職場の引き出しのはさみで指を切ったと説明しているが,事件の際に負った傷の言い訳のようにもみえる。傷の原因についても,Eが聞いたものと被告人の供述に若干の食い違いもある。
(3) 被告人による,アリバイがないことのことさらな主張
 被告人が,事件から2日後(被告人が事件の知らせを受けたとする15日の翌日)である16日の夜の通夜の席において,「自分にアリバイがないから疑われている」ということをことさらに述べている。アリバイのことが意識にあったとしても,事件当日に市内のあちらこちらを移動していたならば,アリバイが将来的に確認される可能性もあるはずであり,この段階でアリバイが「ない」ことを確定的に強調するのは不自然である。
6 被告人の妻の証言について
 被告人の妻Eは,被告人について,事件直後から大きく変貌し,ピリピリした状態にあったと言い,その後,被告人が犯人ではないかとの確信を深めたと言っている。同女がそのように確信した理由について,公判で詳細に証言しており,那須裁判官が意見で指摘しているように,一つ一つは夫婦の間の些細なエピソードに過ぎないとしても,これらが積み重なることによって,全体として被告人が犯人であると確信するに至った根拠については,詳細で説得力のあるものとなっている。Eは被告人と20年間連れ添った妻であり,妻Eの証言は,本件において重い意味を持つものと考える。
7 総合判断
(1) 本件においては,1個の間接事実だけで被告人が犯人であると推認できるような強力な間接事実は存在しない。しかし,以上みてきたとおり,被告人が事件に関与していることが推認できる間接事実又は関与している可能性が高いと考えられる間接事実が多数存在しているのであり,これらの間接事実を総合すれば,被告人が本件犯行に関与していることは合理的疑いを容れられない程度にまで立証されているといえる。
(2) 刑事裁判における有罪認定に必要とされる立証の程度としての「合理的な疑いを差し挟む余地がない」の意義について,多数意見が引用する平成19年10月16日の第一小法廷決定は,「合理的な疑いを差し挟む余地がないというのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定を可能とする趣旨である。」とする。
 前記第一小法廷決定の趣旨に従えば,本件においては,被告人が本件犯行を行ったとの点について,合理的疑いを差し挟まない程度の立証はされていると考える。
(3) 原判決及び第一審判決の事実認定は,これを肯認することができるから,当法廷は量刑の当否について審議すべきであると考える。
第3 多数意見に対する疑問及び差戻後の第一審の審理について
1 多数意見は,間接事実によって合理的疑いを容れない程度の立証があったとするためには,間接事実中に「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」が含まれていることを要するとする。この説示部分は,法令の解釈適用ではなく,経験則を示すものである。しかし,このような概念を定立することの相当性には,次の二点の疑問がある。
(1) 「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」という概念は必ずしも明確ではない。この概念が1個の間接事実中に「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」が含まれていることを要する趣旨であれば,明らかに誤りである。なぜなら,その1個の間接事実があれば十分であり,他方,それがなければ認定することができないことを意味し,複数の間接事実を総合して認定することを否定する趣旨であると解されかねないからである。そうであるとすれば,複数の間接事実,特に多数の間接事実を総合して被告人が犯人であると認定する場合には,「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」があるとは,まさしく被告人が犯人であることが合理的疑いを容れない程度に立証された場合と同意義になるように思われる。そうすると,このような概念をあえて定立することの必要性はないように思われる。
(2) 次に,刑事裁判における事実認定は,社会生活を営むことによって形成される経験則に基づいて行われるものであるから,裁判官の専権に属するものではなく,広く一般国民も十分なし得るものである。裁判員裁判は,多様な経験を有する国民の健全な良識を刑事裁判に反映させようとするものであるから,裁判官がこれまで形成した事実認定の手法を裁判員がそのまま受け入れるよう求めることは,避けなければならない。上記概念は,間接事実からの認定につき,一部実務家が提唱していた概念と同一内容のものである。多数意見は,これを間接事実から被告人が犯人であることを認定するための要件とし,被告人を有罪とするにはこれを満たさなければならないと判示するものであって,上記のような事実認定の手法が裁判員裁判の場合にも適用されるべきであるとの前提に立っているのではないかと解される。しかし,上記概念を用いることは,合理的疑いを容れない程度の立証とは何かを説明するためのものであるとしても,先に述べたような趣旨で裁判員裁判が実施された現時点においては,相当ではないと考える。
2 本件は,第一審に差し戻されることになるが,被告人の妻Eは,事件直後に被告人の腕にあざ(指のような形)及びデニムのシャツの絞りじわがあったと証言しており,第一審判決はその証言の信用性を否定しているが,Eの証言はいずれも詳細で具体的であって,現実の体験であることを強く感じさせるものであり,同証言の信用性については再検討が必要であると考える。また,乙14号証の任意性につき,第一審判決はこれを肯定し,原判決はこれを否定している。任意捜査の過程でなされた被告人の警察官に対する供述の任意性の問題であり,この点も再検討が必要であると考える。
検察官青沼隆之 公判出席
(裁判長裁判官 藤田宙靖 裁判官 堀籠幸男 裁判官 那須弘平 裁判官 田原睦夫 裁判官 近藤崇晴)

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