法律相談24時間受付無料 0120-631-276 まずは相談予約のお電話を

殺人大阪2

大阪高等裁判所判決/平成21年(う)第476号

主文

 一審判決を破棄する。
 被告人は無罪。

理由

第1 弁護人の控訴理由及び検察官の答弁
(1) 弁護人の主張
 被告人は,本件ベルトで被害者の頚部を絞めた事実はないのに,これを認定した一審判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある。
(2) 検察官の主張
 一審判決の事実認定は相当であり,事実誤認は存しない。
第2 控訴理由に対する判断
1 一審判決が認定した本件犯罪事実の要旨は,被告人が,平成20年4月8日午後7時30分ころ,被告人の自宅で,寝たきりの叔父(以下においては便宜上「被害者」という。)の頚部にベルトを巻き付け,強く締め付けて窒息死させようとしたものの,思い直して中止したため,全治2週間の傷害を負わせたにとどまったというものである。一審判決は,本件の直後とされる時間帯に被害者を診察した臨床医の証言等から被害者の頚部には人為的で不自然な傷が周回する形で認められるとし,更には,本件当日及びその翌日の被害者の頚部の写真から,この傷が本件ベルトで首を絞められたことによって生じたと認められる旨を証言した法医学者A医師の証言が信用できるのに対し,これを否定した法医学者B医師の証言は信用できないとした上で,その行為者は被告人以外におらず,また,その行為態様から殺意があったことは明らかであるとした。
2 しかし,控訴審における事実取調べの結果をも踏まえれば,A医師は,一審公判における証言の重要部分を控訴審において変遷させており,他方,弁護人請求に基づき控訴審において取り調べた法医学者C医師も,一審証人の法医学者B医師と同様に,A医師の見方を否定する証言をしているところであって,果たして一審判決が依拠したA医師の一審証言が信用できるのか疑問であり,また,一審判決が認定する絞頚の事実は,法医学的見地から合理的といえるのか疑問が残る。以下,詳論する。
(1) 被害者の頚部の傷の状況と一審判決の認定,判断
 本件では,一審判決も指摘するように,被害者の頚部の写真を見ると,後頚部には明白に一定の幅のある傷(以下では,発赤等の皮膚変色を含む趣旨で用いる。)の存在が見て取れ,翌日にもその傷がはっきり残っているのに対し,前頚部及び側頚部は,当日の写真で被害者のいわゆるのど仏の下側には赤い線状の傷が前頚部から両側頚部の方向に認められ,のど仏の上側にも下側に比べて薄いものの赤い線状の傷が存在するように認められるが,翌日の写真では,余りはっきりしない。
 本件ベルトで首を絞めたのであれば,必然的に,前頚部と後頚部の損傷(のうち少なくとも一部)が同時期に生じたことになるが,なぜこのように前頚部と後頚部で傷に差が生じるのかについて,合理的な科学的説明が加えられる必要がある。
 一審判決は,本件当日及び翌日の写真から認められる頚部の傷から,前頚部から側頚部には余り力が加わらなかったことは明らかであるとし,A医師が,一審公判において,前頚部より後頚部の方が硬い上,ベルトを用いて絞頚した場合は非常に絞まりにくく,前頚部には圧力が余り掛かっていない旨証言し,本件ベルトで頚部を1周半させ被害者の前方下側方向にベルトの両端を引っ張るという態様が考えられると証言していることを受け,その犯行態様として,仰向けの被害者に犯人が馬乗りになり,A医師が証言する後頚部からベルトの様な索状物を回して1周半させその両端を前方に引っ張ったという態様を推認している。
(2) 前頚部の圧迫の程度とうっ血,チアノーゼ等について
 しかしながら,A医師は,控訴審において,被害者の頚部の写真に加えてチアノーゼが生じている事実を併せ考えると,前頚部の圧閉は中途半端なものではなく,気道閉塞を生じる状態であった旨証言し,前頚部にも相当の圧力が掛かっていたとして,前記の一審証言とは全く相容れない内容を述べている。
 しかも,A医師は,一審公判においては,頚部の前3分の1側に気管や血管といった重要な部分が集中していることを前提にしつつ,ベルトによる絞頚では,その性状からネクタイなどと異なり首が絞まりにくいという点を明確に証言した上で,重要部分が集中する前頚部に圧力が余り掛かっていないと証言していたのであるから,これが単なる誤解や言い間違いであるとは考えられない。さらに,A医師は,一審では,これと同様に,うっ血等が見られなかった理由について動静脈が絞まらなかったことを述べているが,C医師が証言し,また,A医師自身が控訴審公判の証言で確認したように,うっ血や溢血の原因となる頚部の静脈閉塞には約2~3キログラムの圧力が必要であるのに対し,頚部気道閉塞には約15キログラムの圧力が必要であると認められるところ,索状物を頚部に周回させて絞頚したことによる気道閉塞があれば,必然的に動静脈も閉塞しているというほかなく,しかも,A医師によれば,そのような閉塞時間が数分は続いていたと証言しているから,動静脈閉塞の点でもA医師の証言は一審,控訴審で一貫していない。
 ところで,一審判決は,被害者の前頚部には本件ベルトによる絞頚によっても強い圧力が掛かっていないことを前提に,(顕著な)うっ血を生じなかったとしても不自然でないとしつつ,チアノーゼが絞頚によって生じたとみるのが自然であるとしている。しかし,上記のところからも明らかなように,一審判決がいうように前頚部から側頚部にかけて強い圧力が掛かっていないのであれば,なぜ絞頚を原因とするチアノーゼ(しかも,被害者の全身状態が悪かったにせよ,後記のとおり病院搬送後もなかなか回復しない程度のものである。)が出現するのか説明できないというほかなく,この点はC医師が,前頚部に力が掛かっていないのであれば,頚部圧迫によるチアノーゼが生じたというのは矛盾である旨証言するとおりである。
 他方,A医師が控訴審公判で証言するように,数分程度気道閉塞するほどの圧力を前頚部に加えたのであれば,被害者にうっ血が認められなかった点が整合しないというべきである。この点につき,A医師は,控訴審公判で,チアノーゼが生じれば必ずうっ血も生じるが,今回は可逆的に元に戻ったなどとも証言するが,被害者の全身状態の悪さがあるにせよ,病院搬送後の治療にもかかわらず1時間程度チアノーゼが継続するというほど絞頚したのであれば,それほどの力と継続時間で動静脈も閉塞させたことにほかならないのであって,うっ血が生じるまでに1~2分程度しか掛からないこと(B医師及びC医師の各証言)に照らしても,C医師が控訴審で述べるように,うっ血が残らないということは考え難い。
 A医師は,控訴審公判において,前頚部にも気道を閉塞させる程度の圧力が加わったという前提で,前頚部と後頚部の傷跡の違いについて,後頚部は首の中でも硬い部分であることから,絞頚するベルトが滑り圧挫擦過傷ができやすいのに対し,前頚部は柔らかい部分であることから,ベルトが滑らず,絞める圧力が分散されるとか,前頚部分はひしゃげることで頚周りが細くなっていくから,後頚部と同様にはならない旨証言している。しかし,A医師は,控訴審において,前頚部については径が小さくなる以外にベルトが動いて擦過したことはないなどと証言するところ,その一方で,傷の乱雑さから見て被害者や加害者が動いているなどと証言しているのであるから,1本でつながっているベルトで締め付けている以上,そのような態様で後頚部のベルトを動かしているのに,前頚部については,(径が小さくなったとしても)全く皮膚を擦過しないことは現実的に考えられないというほかない(加えて,B医師やC医師は,のど仏をベルトで圧迫し,のど仏の上下に傷があるならば,突起物であるのど仏の部分にも当然痕跡が残るはずであると証言しており,A医師はのど仏の構造からこの両証言を否定しているけれども,そのような説明が直ちに首肯できるとは言い難いものがある。)。
 このほか,A医師は,溢血点について,一審公判では絞まり方が不十分で,生じていない旨明確に証言していた(ただし,溢血点が生じてもすぐに消えてしまう旨も言及している。)にもかかわらず,控訴審においては,溢血点(ただし,血管の破綻を来さないものに限定して証言している。)があったが消失したと述べたり,臨床医師が被害者を診察した際には溢血点が見られなかった旨を聞くと,力が前頚部に掛かっていなかった可能性があると述べるなど,その証言内容は一貫しない。また,一審公判で前頚部に出血がある旨を述べたのは,1枚の写真のみから判断したためであって,皮膚変色の間違いであったとか,一審公判で後頚部に表皮剥脱がないと証言したのは,その時は正しいと思っていたが,控訴審までの期間に考察したところ,現時点の意見としては表皮剥脱があると判断すると証言している。明白な誤記や,資料が新たに追加された結果従前の判断が変わるというのであればまだしも,このような証言状況に照らせば,A証言全体の信用性を慎重に検討せざるを得ないし,弁護人が控訴審弁論において,A医師の証言を場当たり的であるなどと厳しく批判しているところも,あながち不当とはいえない。
 結局のところ,一審判決が索状物による絞頚を認定するに当たり前提とする,被害者の前頚部及び側頚部に圧力が加わっていなかったという事実は,A医師自身控訴審公判で否定しているし,A医師の一審証言を全面的に信用できるとは言い難い状況にあり,また,この事実を前提にすると,絞頚によってチアノーゼが生じたということが説明困難である。このことからすれば,そもそも索状物が前頚部にも回っていたこと自体について疑問の余地があることになる。
(3) 交差痕がないことについて
 次に,一審判決は,被害者の頚部に交差痕が認められないことについても,A医師の一審証言の趣旨を踏まえつつ,後頚部及び両鎖骨に向かう方向にだけ強い力が働き,他の部分には余り力が加わらなかったと認められることから,ベルトの肌への力の加わり方や密着の仕方いかんによっては,本来表れるべき途切れの部分が微細で写真上に表れなかったり,索状物を引っ張る過程でずれが生じて途切れた部分が埋まる等といったことも十分に考えられると説示している。
 しかし,まず,一審判決がいう後頚部及び両鎖骨に向かう方向以外の部分に余り力が加わらなかったという点が直ちに是認できないことは上記のとおりである。
 加えて,一審判決が言及する索状物を引っ張る過程でずれが生じて途切れた部分が埋まった可能性については,C医師が証言するように索状物がずれたというのであれば傷の幅が広くなると考えられるところ,本件当日(一審甲5,弁3)及び翌日(一審甲6,控訴審検書1)の写真を見ても,後頚部から両鎖骨に向かう傷跡はおおむね均一の幅のまま明瞭に残存しているのであって,そのような可能性を認めることには疑問がある。なお,交差痕がないことについて,A医師は,一審公判で,側頚部に索状物の交差があったと考えられるが,ベルトのようなものでは皮膚に痕跡を残すほど力が加わらず交差痕が残らないと証言するが,上記のとおり,後頚部から両鎖骨に向かう傷跡が明瞭に残っており,その傷跡を残した索状物と交差する限り,その跡も残るはずであって,その証言が合理的とは思われない。A医師は,一審公判で人形を,控訴審公判で絵コンテを用いて索状物による絞頚の状況を再現しているけれども,その再現であれば,後頚部から左鎖骨に向かう傷跡と相容れないし,後頚部の傷も幅が一定であることと相容れない。この点について,A医師は,控訴審において,ベルトの性状,犯人の力の入れ方や被害者の動き等から,重なったベルトが浮き上がったためであると証言している。しかし,A医師は,気道が圧閉される程度の力が前頚部に掛かったといい,ベルトの両端を被害者の前方下側に向かって引っ張るという態様を推認しているのであるから,交差する上側のベルトが浮き上がったままとは考え難いし,現に後頚部から左鎖骨に向けてほぼ同一の幅の傷跡が残されている以上,その傷を生成したベルトより皮膚側で交差する索状物があれば何らかの交差痕が残るはずであって,控訴審証言もこの点の疑問の解消にはならないというべきである。なお,検察官は,控訴審の弁論において,ベルトの状況を傷跡から推論し,それを図示している。確かに,この図によれば,上記の後頚部から両鎖骨に向かう傷跡については整合的に説明できるのであるが,後頚部においてベルトがほとんど重ならずに2本ほぼ上下に平行に横並びになっている点につき,写真(一審甲5,6,弁3,控訴審検書1)に写る後頚部の傷跡が幅のある1つの傷で,その上下に,幅を持った別の傷跡があるようには全くうかがわれないことの合理的説明が困難であるし,A医師の証言との整合性も疑問である。なお,一審判決は,本来表れるべき途切れの部分が写真上に表れなかったことが考えられるというが,本件後に被害者を診察した医師らが交差痕を確認していたのであればともかく,写真に表れていない可能性があるというだけでは積極的に途切れが存在したことを裏付けるものではない。
 そうすると,交差痕が認められなかったという事実は,B医師やC医師が証言するように,一審判決やA医師が言うような態様で,索状物によって絞頚したとの推認を妨げる事実として無視できない。
(4) 臨床医の証言等から認められる被害者の頚部の傷の状況について
 ところで,一審判決も正当に説示するように,本件直後に被害者を診察した臨床医であるD・E両医師は,頚部の周回性の傷を見て,何者かによって絞頚されたのではないかとの疑いを抱き,警察に通報したというのであるから,臨床医にとって人為的で,不自然な傷に感じられるものがあったことが認められる。そこで,頚部の傷に関する両医師の証言をみてみる。
 D医師は,被害者の前頚部には,何らかの索状物で絞められたような2本の線状痕があった,後頚部にも同様の線状痕が2本ありその間はうっ血をしていると認められた,後頚部の傷と前頚部の傷に一連のものと考えられる連続性があり,後方から前の方に連続して回り込んでいた,前頚部の傷は,1本,2本,若しくは3本だったかもしれず覚えていない,後頚部の傷も診察当時1本か2本か複数だったか記憶にない,前頚部に2本,後頚部に2本の傷が全部つながっているように思うが,細かいところは覚えていない,2本の線が間違いなくつながっていたが,交差したり途切れている部分があるかは確認していない,後頚部から鎖骨に向かう傷は,その上の方にうっすら残っている傷があり,それと同じ場所にたまたまできた傷だと思うし,1周していた傷の部分と一部重なっている,強い力が首に掛かったと判断しているので,第三者が首を絞めたと推察するが,具体的な態様までは分からない,などと証言している。
 一方,D医師から引継ぎを受けたE医師は,頚部の傷は,前頚部と後頚部で,見た目は違うがつながっている全周性で,前頚部には2~3ミリメートルのくぼみで,幅が3~4ミリメートルの線状の発赤が1本ないしは2本あり,後頚部になると幅があった,後頚部の傷は,幅が1~2センチメートルであり,褥瘡ではなく圧迫された跡と判断した,前頚部の傷と後頚部の傷は,見た目は違うがつながっていて方向は一致していた,ネックレスか何かを着けていると思った,前頚部はベルトの面ではなく縁の部分が当たっていると考えた,写真では,顎の下(のど仏の上)に発赤があるように見えるが診察した4月8日時点では特に意識していなかった,などと証言している。
 両医師の証言は,被害者の頚部には圧迫を受けたような全周性の傷があるという点で共通するが,D医師によれば,前頚部の2本の傷が後頚部の2本の傷につながっているかのようにもうかがわれるものの,細かいところまでは覚えていないというのであるし,また,後頚部から鎖骨に向かう傷は,周回性の傷とは別の傷であるかのようにもうかがわれるものの,E医師が述べる,前頚部の傷と後頚部の傷が途中で太さが変わるもののつながっているという傷の状況と整合するのかも明らかでない。このように,その全周性の傷がどのようなものだったのか,すなわち写真から認められる前頚部の傷と後頚部の傷がどのように接合していたのか,確定することはできないというほかない。
 また,警察官作成の人体図(一審甲11。なお,控訴審における検察官の釈明によれば,当該人体図作成に当たり,警察官が被害者の損傷部位等を測定したのは本件の翌日である9日の午後0時20分ころである。)を見ても,後頚部に幅約2.5センチメートルの傷が,両側頚部及び前頚部に幅0.2センチメートルの傷が記載されているけれども,写真から認められる後頚部から両鎖骨方向に走る一定の帯状の傷が両側頚部の図に記載されていないし,この図面では後頚部と両側頚部の幅の違う傷がどのように接合しているのかやはり明らかでない。
 そうすると,D・E医師の証言等をもってしても,同医師らが被害者を本件当日に診察した際には,その頚部には圧迫を受けたかのような全周性の傷(そのうちの一部はC医師の証言及びA医師の控訴審証言から発赤(皮膚変色)にすぎないと認められる。)があったということはできても,それ以上に傷の状況が明らかではなく,それが索状物による絞頚の跡であったと断定するところまでは至らない。
 結局のところ,最も証拠価値が高いはずの本件当日の被害者の頚部の状況に関する写真が部分部分についてしか撮影されておらず,周回性の傷全体が確認できないし,それを補うだけの証拠はない。被害者の救命が優先される状況であったことは理解できるものの,捜査機関における初期の客観的な証拠収集が不十分であったといわざるを得ない。
(5) 上記以外の点に関する控訴審における検察官の主張について
ア 検察官は,被害者の頚部の傷が幅のある索状物による圧迫痕又は擦過痕であると主張し,弁護人が主張する褥瘡ないし皮膚炎ではない旨主張する。確かに,被害者は介護放棄の状態にあり,衛生環境等も相当に劣悪な状態であったことを考慮しても,関係証拠から認められる後頚部から両鎖骨に走る傷は,上端及び下端の傷の縁が比較的はっきりしており,いわゆる通常の意味での褥瘡とは考え難く,C医師も証言するように,何か帯状の物体(索状物)が擦過したことが推認でき,しかも,その傷は人為的に生成された可能性を否定できるものではない。しかし,その傷を生成した索状物が前頚部に周回していたと認定できないことは上記のとおりであり,その索状物が本件ベルトであるとは証拠上断定できない。
 その生成時期についても,弁護人は後頚部にかさぶたが存する旨主張しているが,証拠上かさぶたであるとまではいえず,被告人が119番通報をした直前であろう可能性が低くないものの,断定するに足りる証拠はない。
 他方,前頚部の傷に関しては,発赤にすぎないと認められ,被害者の身体状況や衛生状況に照らせば,C医師が述べる生成過程であった可能性もあながち否定できるものではない。
 結局のところ,被害者の頚部の傷は,いつ,どのような経緯でできたのかは本件証拠関係からは認定できないというほかない。
イ 次に,検察官は,被害者が本件翌日の警察官の事情聴取に対し,首を絞められたことを認めていた旨主張する。しかし,その根拠となる今村警察官の控訴審証言をみれば,事情聴取に病院に赴いた同警察官が,被害者に質問をしたところ,名前を尋ねるとかすかに「F」と答え,その後,質問によって,首を縦に振ったり,横に振ったり,あるいは,無表情で目をそらしたというのであるが,そもそも質問を十分に理解できたかはっきりしないし,仮に理解できたにせよ,的確な応答をし,かつ,その応答を客観的な事実どおりに同警察官が観察したのか疑問なしとしない。すなわち,同警察官が行った最初の事情聴取は,4月9日の午前9時50分から午前10時10分までの20分間であったところ,看護日誌の記載によれば,午前10時ころは,呼び名に対して発語があるも聞き取れず,かつ,酸素飽和度が低下し,追加して酸素投与を受けているような状況下であったことが認められ,他方,同警察官は,被害者が病院に搬送された後に被告人の所在が分からなくなったという事情を把握し,被告人について容疑が濃厚であるとの認識を持っていたというのである。そして,同警察官の証言によっても,首を縦にあるいは横に振ったという動作がどの程度の動きなのか判然としないし,被告人に関する質問をした際には被害者は何も動作をせず,顔を若干横向きに変えたことから,無表情で目をそらしたと感じたというのであるが,酸素マスクを着けたままベッドに横たわっている被害者が質問に対し応答しなかった,あるいは若干顔を横向きにしたからといって,意図的にそのようにしたのかは全く定かでない(そして,同警察官によれば,その事情聴取の状況を客観的に記録したものは報告書以外に存在せず,報告書の原資料となるメモすら廃棄したといい,しかもその報告書に記載した質問と自分の発した質問とが一致しないことを問われ,合理的とは思われない理由を述べている。)。このように,同警察官が,被害者の動きや状態を意識的あるいは無意識的に自らの心証に合うように評価した疑いは払拭できず,その証言から,被害者が首を絞められたことを認めたということはできない。
ウ 検察官は,本件直後,被害者に呼吸困難やチアノーゼが生じたことは,治療開始後30分程度でこれらが改善していることからも,一時的現象にすぎず,その原因は絞頚以外にない旨も主張する。しかし,被害者は平成21年11月18日にも突如容体が急変し酸素飽和度が測定できなくなったという被告人の控訴審供述はしばらく措くとしても,絞頚によってチアノーゼが生じたのであれば,うっ血も認められるはずであることは前記のとおりであり,C医師が全身状態等の悪さに原因がある可能性を指摘しているところであって,絞頚以外に原因がないとまではいえない。
エ その他,検察官は,被告人が救急隊員に虚偽を述べたことや被害者の搬送先の病院から逃走したこと,その他被告人の弁解が信用できないことなどをるる主張している。確かに,被告人が供述する本件以前の被害者の状況等は,被害者が発見された際の状況に整合するものとはいえないし,介護放棄をしていたとはいえ救急隊員に虚偽の事実を述べその後所在不明になっていることなど,被告人が本件を敢行したのではないかと疑わせる事情はあるものの,上記の種々の疑問を払拭するものとはいえない。
3 結論
 以上検討したように,少なくとも本件直後とされる被害者の身体を確認した医師らには,頚部を周回するように見えた傷跡があったことや,被害者の後頚部から両鎖骨にかけて何らかの索状物が擦過したと認められる明白な傷跡が残っている上,上記のとおり決定的な要素とは言い難いものの被告人が本件を敢行したのではないかと一応疑わせる事情が存する。また,検察官が主張する被告人の動機も,あり得ないものではない。しかしながら,被告人が本件犯行を敢行したとすると,被害者に生じた身体的変化や,交差痕が見当たらないことを合理的に説明できないことなどに照らせば,本件で取調べ済みの全証拠をもってしても,被告人が本件ベルトを被害者の頚部に周回させて,絞頚したと認定するには,なお,合理的な疑いが残る。
 そうすると,本件について被告人を有罪と認定した一審判決は,事実を誤認したといわざるを得ず,これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。そして,被告人が被害者を殺害しようとしたという本件犯行が認められないとすると,被害者の頚部に残っていた傷が,いつ,どのような経緯で生成されたのかを合理的に推論することはできないのであって,被告人について別途の犯罪が成立することを考えることも困難というほかない。
 結局のところ,この趣旨をいう弁護人の主張には理由がある。
 そこで,一審判決を破棄し,自判することとする。
第3 適用法令
 刑事訴訟法397条1項,382条,400条ただし書
第4 自判
 本件公訴事実は,「被告人は,平成20年4月8日午後7時30分ころから同日午後7時50分ころまでの間,大阪府枚方市(以下略)の自宅において,殺意をもって,F(当時75歳)に対し,その頚部をベルトで締め付けたが,同人に全治約2週間を要する頚部挫創及び頚部圧迫による皮下出血の傷害を負わせたにとどまり,その目的を遂げなかった。」というものであるところ,前記のとおりこれを認定するに足りる証拠がなく,本件公訴事実については,犯罪の証明がないことになるから,被告人に対し無罪の言渡しをする。
(適用法令)刑事訴訟法336条
平成22年3月19日
大阪高等裁判所第2刑事部
裁判長裁判官  湯川哲嗣
裁判官  武田義徳
裁判官  細谷泰暢

▲ 刑事事件の裁判例目次にもどる

LINEアカウントでお得な無料相談を受ける!上記の記事でよく分からない部分を弁護士に法律相談することができます

「LINE無料相談」での実際の相談例をご紹介します

お客様の感謝の声はこちらをクリック。アトム法律事務所は1人1人のお客様を大切にしています。 横浜・川崎で刑事事件に強い弁護士をお探しなら 刑事弁護ホットライン 0120-631-276 法律相談のご予約は日本全国24時間受付無料 すぐに弁護士が警察署に向かいます。まずはお電話ください。 親身で頼りになる刑事弁護士とすぐに相談できます。